賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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ネット上の人格について

   

インターネットというのは本当に様々な人で溢れていて、しかしながら基本的には、その構造上、非常に匿名性が強い。そんな中で、TwitterやFacebookなどのSNSに代表されるような、割と発言者の“個”の部分が見えやすい媒体における人格(性格)というものを少し考えてみたいと思う。

 

まず、前提として、インターネット上に存在するコンテンツというのは、基本的に、文章、画像、音声、動画のいずれかである。そして、この中で、通常、SNSなどで一般人が発信するのは文章あるいは画像(写真)だけだろう。(音声とか動画とかを出したりするやつはオレの中では一般人じゃないという定義w)

 

とすれば、画像(写真)と画像(写真)で他者とコミュニケーションを取ることはさすがに不可能なので、インターネットにおける人格(性格)は文章によって表れてくると考えていい。(多くの場合「文章」と呼べるようなクオリティのものではない場合の方が圧倒的に多いがw)

 

そこで、まずオレが注目しているのは、「主体的な発信(つぶやき等)と他者とのやりとり(リプライ等)とでは口調(文体)が違う」という部分である。これは現実に当てはめてみれば、「独り言と会話では喋り方が違う」という、一見すると当たり前の事実なのだけど、オレの中では少し質的に異なる。

 

どういうことか。

 

現実の会話というのは、お互いに、状況として常にある種の“アドリブ”を求められている。当然、お互いにあらかじめ用意してきたセリフで会話するわけではないだろう。会話には最適化された“テンポ”というものがあるのだから、じっくりセリフを選んでいる暇もない。しかし一方で、SNSにおけるやりとりには、言葉を発するにあたって(常識の範囲内であれば)時間の制約がない。

 

ここは些細なようでいて、非常に大きな違いである。

 

とっさの時に人間の本性って出てくるよね、というありがちなフレーズを引き合いに出すまでもなく、まさにその人の「人格」なるものは“アドリブ”の時にこそよく表れる。つまり、逆に言えば、何度も推敲することがシステム的に許されているSNS上のやりとりで表れているものは、その人の本当の人格ではない可能性が高い。

 

もっと言えば、幾度も推敲する猶予が与えられていてもなお、人としてアカンような発言をしてしまいがちな人がいた場合、そいつはネットというフィルターを通してもなお滲み出てしまうほど本当に人としてアカンのか、あるいは思慮の足りないただのバカだろう(笑)

 

さて、そういうわけなので、あまりネット上の印象というのはあてにならない。これは理屈の上での推論というだけの話ではなくて、実際にオレの経験からも言えることである。ネット上で知り合った人と実際に会ってみた場合や、逆に、実際の知人のweb上のメディアを見たときの印象など、多くの場合においてイメージ通りの人はいなかった。

 

だからどうだ、という話ではない。今回の記事は珍しく、何も問題提起していないし、何も主張していない。ただただ、印象と感想を理屈で料理しただけという、なんとも宙ぶらりんな感じになってしまった(笑)

 

まあ、たまには、それも一興ということでひとつ。

 

 - メディア論