賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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シェイクスピア『ハムレット』にみる“悲劇”の構造

   

どのような媒体であれ、「あらゆる創作的な物語における悲劇性とはどのようなものか」という問いに対して、万人が納得できるような「完璧な」答えを出すことは容易ではないだろう。

 

しかし、今回取り上げる『ハムレット』のみならず、全ての悲劇的な物語にはある種の共通点が見られるように思う。それは、「物語の始まりあるいは序盤において、そもそもハッピーエンドが成り立ち得ない設定、事件、心理性、人間関係、その他の負の要素が存在(発生)する」ということである。

 

この記事で述べる『ハムレット』のように、そもそもジャンルからして“復讐劇”である場合などはそれが特に顕著であり、物語の前提として「主人公またはそれに準じる主要人物の過去において、悲哀、怨嗟、憎悪などの負の感情の契機となる出来事が必ず存在している」のである。

 

だから、その物語の中で、主人公は非常に過酷な運命を辿ることとなり、その延長線上には当然ながら“人の死”が描かれることが多い。

 

けれども、実は問題がふたつある。

 

ひとつは、“人の死”は本当に悲劇であるといえるのか、ということである。“人の死”こそが悲劇の本質であるとするのは、少しばかり浅慮に過ぎるのではないだろうか。

 

英文学史に残る名作と比較してよいものかは甚だ疑問であるが、日本の漫画に『ゴルゴ13』という作品がある。さすがに、まったく知らないという人はいないと思うけど、この作品の主人公は、裏社会で活躍する凄腕の狙撃手(スナイパー)である。そして、そのほとんどのエピソードにおいて多くの“人の死”が描かれる。しかしながら、そのどれもが、そこに描かれる“人の死”に起因する“悲劇”であるとの評価はなされていない。

 

もうひとつの問題は、物語の始まりに存在する「負の要素」のみによって、本当に結末の方向性が定まってしまうのか、ということである。これも、少し見方を変えるだけでずいぶんと明確になる。

 

もはや、文学が特に好きな人でなくてもご存じのとおり、かの有名な『ハリー・ポッター』においても、物語の始まりですでに主人公は両親を殺されてしまっており、物語の最後にはその宿敵、ヴォルデモートを打ち倒すのである。解釈の如何によってはこれも立派な“復讐劇”であるけれども、最終的には形式の上ではハッピーエンドを迎えている。(あの7巻の展開はハッピーエンドなのかという議論は今は置いておく)

 

このように考えてみると、「物語の前提にある負の要素」と「その延長線上に描かれる“人の死”」はどちらも悲劇としての本質ではないようである。それならば、悲劇としての本質とは何であるか、という問いに再び戻ってくる。

 

その答えとして、ここでは、「出来事の意外性」と「登場人物同士のコミュニケーション不全によるすれ違い」というふたつの要素を挙げたいと思う。

 

「出来事の意外性」については、特に悲劇に限った話ではなくて、何事においても、人は簡単に想定できる出来事よりも予想の及びもしない出来事に遭遇した場合の方が受ける衝撃は大きいであろうということである。つまり、物語の中で、登場人物にとっても読み手(受け手)にとっても意外性のある「負の要素」が悲劇に繋がっていると考えられる。

 

また、「コミュニケーション不全」については、この『ハムレット』に登場するデンマーク王妃や宰相の娘が死亡する場面などが該当する。これらは、登場人物間において、互いに意思疎通が充分に図れていれば未然に防げたであろう出来事だという後悔の念が中心となって読み手(受け手)の悲しみを増すのである。

 

これらの他に、もうひとつイレギュラーな要素を加えるとすれば、「主要人物の一部が論理的(倫理的)に異常ともいえる言動をする」というのも考えられる。

 

これはまさに『ハムレット』の中盤における主人公ハムレットの姿が該当する。このことにより、その人物に対して通常の尺度で対応できないという意味での「意外性」と話が通じないという意味での「コミュニケーション不全」のふたつをごく自然に演出できるのである。

 

このように、書き手(創り手)と読み手(受け手)の双方の立場に立って述べてきたけれども、身も蓋もない言い方をすると、結局のところ物語の何をもって“悲劇”と定義するかというのは完全に個人の主観の問題ではないだろうか。

 

まあ、これはオレの個人的な感覚だけども、あまりに過剰な“悲劇性”の演出はかえって受け手を興醒めさせてしまう可能性すらも内包していると言えるだろう。実際、この『ハムレット』における、終盤に主要人物のほぼ全てがあっけなく死亡するという展開は、オレにとってはもはや悲劇を通り越して滑稽ですらあった。

 

“悲劇”とは、人が本質的にこうありたいと望むあり方では決してない。しかし、それでも時代を越えてこういった物語が愛されるのは、あるいは人が心のどこかでは“悲劇”を望んでいるからなのかもしれない。

 

もちろん、まったくの無自覚にである。

 

 - 物語論