賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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「才能」と「没頭」は同義である

   

「才能」とは何か、「努力」とは何か、みたいな議論はもはや手垢がいくつ付いても足りないくらい幾度もなされてきただろうけれども、今回は、ひとつオレなりに考える「才能」や「努力」に関する新たな知見を提供したいと思う。

 

世の中には、ある種の“成功者”と呼ばれる人達がいて、そういった人達というのは生まれながらにして何らかの才能を持っていたのか、あるいは後天的に努力した結果なのか、はたまたその両方か、といったような類の議論は後を絶たない。そして、ほとんどの場合、人それぞれのケースによるが、多くは両方だという結論になる。

 

何を当たり前なことを、と言った感じだが(笑)

 

逆に言えば、「才能」や「努力」という言葉を従来通りの意味で無思慮なまま使っていては、当たり前のように、こういう議論、ひいてはこういう結論にしかなり得ないだろう。

 

そもそも、オレの中で素朴な疑問としてあるのだけど、「才能」はまあともかくとして、「努力」というのは他人から見て(客観的に)判断できるものなのか、という。

 

いや、確かに、ある時点において「できなかったこと」を何らかの訓練や反復によってできるようになるという過程は他人から見たら「努力」として映っているのだろう。つまり、「頑張って」できるようになったのだと解釈される。

 

けれども、その過程に、本人にとってはまったくストレスがなかったとしたらどうだろうか。つまり、本人にとっては、まったくもって「頑張った」という意識がない場合である。

 

誰しも一度は経験したことがあると思うのだけど、子供の頃は特に、何かにとてもハマっていた時期というのがあるだろう。どんな些細なことでもいい。例えば、テトリスとか、ヨーヨーとか。いわゆる趣味的なホビーが一番イメージしやすいと思うのだけど、ああいったものは、特に苦労して頑張った覚えがなくても、ただ純粋に好きでやり続けていたら何か勝手にうまくなったという記憶があるのはきっとオレだけではないはずだ。

 

まさに、「ただ純粋に好きでやり続けていた」という状態。これを他人が見たら「努力」と呼び、その結果として「何か勝手にうまくなった」という状態を「才能があった」という言葉で表現しているのだろう。

 

このように、おそらく誰もが一度くらいは、何らかの分野で「無自覚な努力」によって「才能」を発揮していたはずである。

 

ではなぜ、世の中にはいわゆる“成功者”と呼ばれる人達は数少なく、そうでない人間が圧倒的に多く存在しているのか。

 

原因はふたつ考えられる。

 

ひとつは、あまりにもしょーもねー理由なので書いていて悲しくなってくるが、多くの場合、自称“物わかりのいい大人達”が「そんな将来の為にならないことばっかりやってないでちゃんと勉強しなさい!」みたいなことを言って、早々と才能の芽を摘み取ってしまうからである。ああ、しょーもねー(笑)

 

そして、ふたつ目は、こちらは非常に重要な視点なのだけど、ある特定の分野における「才能」が直接的に、社会に貢献して財産との交換をもたらすような「価値」として表出することは非常に稀だからである。

 

具体的には、ビジネス、スポーツ、エンターテインメントなどに代表されるような、ある種の「わかりやすい能力」として出てこないことには評価のされようがない。自分は好きでやっていてその道を究めたと思っていても、他人から見たら何の価値もない行為というのは意外と少なくない。

 

「努力できることって一種の才能だよね」というセリフは割とよく耳にするものだろう。しかしながら、このセリフはオレの中では少しばかりしっくりきていない。

 

なんというか、オレのイメージでは、「努力できる」という「才能」を持って生まれてきたわけでは別になくて、「無自覚な努力」という「没頭」がもはや「才能」と同義なのだと考えている。

 

だから、正確には、「何かに関する才能」というものがその人の中に存在しているわけでは決してなくて、「とにかく好きだから何かずっとやり続けている」という状態、つまり「没頭」こそが一般的に言われる「才能」の本質なのだ。

 

つまり、人生において何にハマるのかは完全に運なのである。

 

なんという救いのない結論。しかし、それもまた人生、といった感が否応なく我々の思考にはある。

 

 - 思考