賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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比較によって初めて成り立つ言葉

   

頻度や程度、もしくは相対的な概念を表すような単語は、その多くが通常、対義語を伴って存在する。これらは、客観的なその事象の定義をダイレクトに正確に表現できるのではなくて、他との比較によって初めてその単語としての意味が表現されるのである。

 

当然、これらは、このような理論の上においては、その単語それ自体では意味を成さないという事になる。しかし、この問題を、理論の上だけではなく、実際に我々が意思伝達を行う場としての現実社会にまで視野を広げてみる事で、違った側面が見えてくる。

 

具体例としては、まず、温度に関する単語として、「熱い」、「冷たい」という単語を取り上げる事にしよう。これらは、上で書いた前提に従えば、何℃を超えると「熱い」(もしくは「冷たい」)という表現を用いるのが適切なのか、という事が厳密には定義されていないことになる。

 

そういう意味では、この「熱い」(もしくは「冷たい」)という単語それ自体では、表現として意味を成さないという事である。(もちろん、温度の変化は「熱い」、「冷たい」といった表現だけで全てを識別できるような二元論的なものではないが、ここでは深く言及はしない)

 

もし仮に、漠然と40℃という数値だけが与えられた場合に、それに対して、「熱い」、「冷たい」(もしくは「寒い」)のどちらが表現として適切であるか、というのは完全に我々の主観である。その状況、生活環境、価値観、心理状態などにより、大いに変動する可能性を持っている。

 

つまり、上で書いたように、これらの単語は定義が非常に曖昧であり、他との比較なしには、本来意味を持ち得ないということになってしまう。

 

さて、しかしながらここで、一般常識というのが非常に大きな役割を担う事になる。

 

現実の社会において、相対的な概念を表す単語を用いるにあたって、我々は普段からその対義語を常に意識している訳ではない。むしろ、“それなり”に“常識的な範囲で”それらの表現を用いている。

 

つまり、例えば80℃という数値を見た時に、大多数の人が感じるのは、当然「熱い」という感覚であり、逆にそれが5℃であれば、当然「冷たい」(もしくは「寒い」)と感じるという事である。

 

このように極端な例を出せば、常識的な観点からも感覚の相違は少ないと思われる。けれでも、最初の例のように、仮に40℃などであれば、ここまで書いたような様々な理由によって、それらの単語の定義付けは非常に困難になる。

 

定義が曖昧でありながら、なぜ我々はそのような表現を使い続けてしまうのだろうか。

 

対義語を意識せずに相対的な概念を表す単語を用いることは、話者としての聞き手に対する無思慮にして無謀な挑戦であり、誤解や疑問が数多く生じるひとつの要因となってしまうのかもしれない。

 

その温度が「熱い」と思っているのは、実は世界中であなただけなのかもしれないのだ。

 

 - 言語論