賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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「脱社畜」という主張にこそ潜む真の社畜性

   

インターネット上で労働や雇用の在り方について論じている人の多くは、いわゆる「社畜」と呼ばれるような状態から何とかして抜け出すべきだ、更には、会社の側は従業員に対して「社畜」的な扱いをするべきではない、といったような主張をする場合が多い。

 

このような主張は、一見すると耳心地が良く、思わず「そうだ、そうだ!」と同調したくなるだろう。それも当然だ。誰しも、割に合わない労働を好き好んでしたいとは思わないのだから。

 

しかし、はっきり言って、オレにはもはやこの考え方こそがそもそも非常に「社畜」的に映る。根本的な立ち位置の違いとはかくも恐ろしいものか、と思う。

 

世の中で、「ブラック企業」などという表現が一般的になってきて久しい。そして、そのような過酷な労働環境で働く会社員のことを比喩的に「社畜」と呼ぶことも随分とポピュラーな表現になってきている。

 

この「社畜」という表現、まさか経営者の側が従業員に対して「お前らは会社に隷属する家畜なんだ!」という意味で「社畜」と呼んだわけではさすがにないだろうから、おそらくは、いわゆる「ブラック企業」の社員が誰ともなく自虐的に言い始めた言葉なのだろう。

 

そんな流れの中で、最近、というか少し前から徐々に認知され始めている「ノマド」であったり「フリーエージェント」といった頭の悪そうな横文字の名前で表現されているような「新しい働き方」とやらに注目が集まってきた。また、仮に会社員であっても、オフィスや出勤時間などの制約が少ない勤務形態なども業種や企業によっては導入されつつある。

 

そうなると、大衆は途端に、「もっと自由な働き方があっていいはずだ!」という論調になってくる。まったくもって実に滑稽なことに(笑)

 

まあ、そんな皮肉はどうでもいいとして、実際にそういった自分とあながち遠くない立場の人達の話を見聞きして、「我も、我も」とばかりに似たような主張を多くの人がし始めるわけだ。「脱社畜」をそのスローガンとして。

 

しかしながら、ここでオレが思うのは、「社畜」という在り方を否定するというその思考こそが、逆説的に、非常に強い「社畜」としての性質を体現しているのではないかということだ。

 

誰のセリフだったか忘れたけれども、海外の有名な資本家の発言にこんなものがある。

「資本家が究極に望むもの、それは、賃金なしでも働く労働者である」

思わず笑ってしまいそうだが、まったくもって笑えない。

 

しかし、これはある意味で、産業というもののひとつの真実である。(雇用の創出という観点からは完全にアウトだがw)

 

つまり、表向きによく語られるような一切の綺麗事を排したとき、経営者の頭の中には、常に「社畜」こそを真に望んでいるという思考が絶対に拭いきれないものとしてあるはずなのだ。

 

まさに、オレの大好きな「強者の論理」である(笑)

 

「社畜でありたくない」という主張は個人的にも普通に理解できる。しかし、それが転じて、「会社こそが諸悪の根源だ」みたいなノリになってくると、正直言ってついていけない。というより、アホかと思う。

 

「脱社畜、脱社畜」とお題目のように唱えて、会社に対する忠誠心を必要以上に無くしていくような営みが健全だとは、オレにはどうも思えない。

 

はっきり言ってしまえば、自分の力で新たな産業を興すことのできない者が会社への不満だけを原動力に「脱社畜」してしまった場合、それはただのクズ社員、あるいはニートだ(笑)

 

それでもいいならどうぞご自由にといった感じだが、そのような人は主観的にも客観的にも、あまり魅力的な人物には思えないだろう。

 

結局、何かからの「縛り」を抜けて自由になるためには、それ相応の実力と責任が伴うということだ。

 

実力もなく責任を負う覚悟もないままに不満だけを垂れ流すなど、まさにただの「家畜」である。我々は「人間」としてきちんと生きなければならないのだから、決して無思慮なまま耳心地の良いフレーズに踊らされるなどということのないようにするべきだ。

 

「脱社畜」というスローガンを掲げて息巻いているその姿こそが、傍から見たら、まさに「社畜」の証であるという可能性に是非とも思い至ってほしい次第である。

 

 - 思考