賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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言語化というカタルシス【前編】

   

オレは昔から、「うまいこと言う」ということに対して非常に強い喜びというかロマンを感じていた。けれども、実際に自分の周りではあまりそういう人に会ったことがない。というより、実際に知り合いに対して「うまいこと言うなあ」と感じたことすらほとんどない。

 

お互いに同じ日本語のネイティブ話者であるはずなのに、何故これほどまでに一瞬一瞬の語彙選択に差が出るのだろう、と個人的には思ってしまうことが多々ある。

 

昔から、正確には子供の頃から、言葉というか言語に対してとても強い興味があった。

 

3歳くらいで、NHKの外国語教室みたいな番組のロシア語編を熱心に観ていたという変態っぷりを発揮し、中学生になる頃にはスペイン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語でそれぞれあいさつ言葉くらいは軽く覚えていた。

 

何故かはわからないけれども、そんなふうに子供の頃からかなりの言語オタクだった。(というか今もだけどw)

 

そんな中で、段々と、言語が持つ「論理」の側面と「表現」の側面というのは、互いに正反対の性質を持っていながら、どちらも欠くことのできない表裏一体の関係なのだということを経験的に理解していった。

 

あ、ちなみに、学問分野としての「言語学」というのは、形態論、統語論、意味論なんかが個人的に一番おいしいところなのだけど、そこに深入りしすぎると誰も読んでくれなくなるので、そこはまた別の機会に(笑)

 

今回はオレ自身の回顧録というか、言葉というものに対する考えをつらつらと語っていく。

 

さて、というわけで、まず「論理」というのは、枠組みという意味での「構造」と中身という意味での「語彙」によって真偽が決まるという非常に機械的というか無機質なものだ。そして、基本的に「正しい形」というものが存在する。逆に言えば、正しいもの以外は「誤謬」である。そういう、いわば発話におけるルールのようなものだ。

 

例えば、以下の3つの文章を見てみよう。

 

1.AはBの兄である
2.CはBの娘である

この時、

3.AはCの伯父である

 

上の文章はもちろん論理的に正しい。これは間違いない。では、何をもって論理的に正しいと言えるのか。もっと言えば、どこを変えると論理的に正しくなくなるのか。

 

この問いに直接答える前に、この文章の要素には3つのグループがあるということをまず説明しておこう。

 

最初のひとつ目は、「A」、「B」、「C」などの「固有名詞」が入る箇所だ。ここは、誰の名前を入れても論理的な正誤にはまったく関係しない。

 

ふたつ目は、「は」、「の」、「である」などの「助詞」および「コピュラ(※)」が入る箇所で、ここが上で言うところの「枠組み」にあたる部分である。

(※:コピュラとは英語における「be動詞」のようなものだと理解してくれればいい)

 

そして、最後が「兄」、「娘」、「伯父」などの「意味語」が入る箇所である。ここは上で言う「中身」の部分だ。

 

上で、論理というのは「枠組み(=構造)」と「中身(=語彙)」によって真偽が決まると書いた。つまり、この例で言えば、枠組みにあたる「は」、「の」、「である」と中身にあたる「兄」、「娘」、「伯父」がどちらも変えてはいけない要素なのである。

 

枠組みを変えてしまうと、そもそも文法的に違う文章になってしまう。そして、中身を変えてしまうと、文章の意味が変わってしまうというわけだ。

 

というところで、例によってまた長くなりそうなので、続きはまた別の記事にて。

 

言語化というカタルシス【後編】

 

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