賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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言語化というカタルシス【後編】

   

この記事を読む前に、以下の記事を先に読むべし。べしべし。

 

言語化というカタルシス【前編】

 

さて、というわけで続きだ。前回の記事で、言語が持つ「論理」の側面については一応の理解が得られたと思うので、今度は、言語が持つ「表現」の側面について書いてみる。

 

まず、「表現」というのは、「論理」とは違って、唯一絶対的な正解というものがない。逆に言えば、あくまで話し手と聞き手の間で理解できる範囲に限ってのことだけれど、ある意味で、無限に正解があるとも言える。

 

そして、その無限の正解の中から、会話の中での一瞬一瞬に最適化した語彙を選びとるという営みは、まさに「論理」のようにルールで決まっているのではなく、センス(=感性)によってなされるものなのである。

 

例えば、「暗い」という意味の言葉を伝えようとした場合に、「表現」のやりようによって、いくらでもニュアンスを変えることができる。

「真っ暗な」
「闇の」
「漆黒の」
「空から墨を落としたような」
「この世界から色が消えたような」
「それはまるで穿孔する闇のようだった」

このように(最後のひとつはわかる人だけにわかる軽い冗談だがw)、すべて同じ出来事というか情景を描写しているにもかかわらず、受け取る印象はかなり違う。そして、当たり前だが、すべて「暗い」ということを意味しているわけだから、論理的に間違っているわけがない。

 

また別の例では、「優柔不断」を「思慮深い」と言い換えるであったり、「どっちつかず」を「臨機応変」と言い換えたりなどといったように、「表現」というものが持つ力は非常に多大であることがわかるだろう。

 

そして、とりわけオレがこの「表現」というものを考えるにあたって、最も重要視しているのが「概念の言語化」というものだ。

 

これは、まさにオレがこのブログ『賢哲なる恣意性』で一貫してやりたいことそのものであって、また今回の記事の主題そのものでもあるのだけど、言ってしまえば、これから説明することがオレの考える「うまいこと言う」という営みのことなのである。

 

誰しも、「言われてみればその通りだ!」と思うようなことでも、意外と自分からは思いつかない(思いつけない)こと、というのは数多い。そういった、今まで自覚的には認識していなかった概念をオレが適切な「表現」でもってはっきりと言語化してみせることで、あなたに新しい気付きであったり、「ハッ!」と膝を打つような思いをしてもらえるといい。

 

そういう思いがオレの中には常にある。何故か、昔から、物事の本質を素早く見抜いて適切に言語化するという能力が、オレは一般的な人よりはどうやら勝っているらしいので、そのような感性の発信にはやはり意味がありそうだと前向きに考えている。

 

そして何より、記事タイトルにもあるように、オレにとって「概念を言語化する」という営みは「カタルシス」なのである。ちなみに、「カタルシス」という単語を辞書で引くと、「魂の浄化」と出てくる(笑)

 

まあ、実際は何もそこまで大袈裟な話ではさすがにないのだけど、確かに、上手く言語化できた際には、ある種の「スッキリする感」というものがある。

 

そんな感じで、オレはこれからも言語というものを愛し、「うまいこと言う」という点において、ある種の異常なこだわりを発揮していくのだろうと思う。

 

まだ見ぬあなたが、「まさにそうだ!」と膝を打ってくれる日をずっと夢見て。

 

 - 言語論