賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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“学畜”という概念を普及させたい

   

“社畜”という言葉はもはやこの時代にインターネットを利用している人で知らない人はあまりいないだろう。そこで、今回はその「会社員」の部分を「大学生」に置き換えた概念として、“学畜”というものを普及させたい。

 

まあ、「普及させたい」と言いつつ、別にオレのこの記事がオリジナル発信源というわけではまったくないのだけど(笑)

 

ともあれ、会社に隷属する「家畜」としての“社畜”と、大学に隷属する「家畜」としての“学畜”は非常に性質として似通っている。

 

ちなみに、オレの中で「家畜」という言葉は「人間としての主体性を失っている状態」のようなニュアンスで使っている。まさにエサを貰うためだけに飼い主の言うことを聞いている動物である。我々は人間なのだから、何としてもここからは抜け出さなければならない。

 

さて、既に“社畜”という言葉の定義やニュアンスはだいぶ世の中に浸透しているからいいとして、“学畜”というのは一体どういった概念なのだろうか。

 

オレが考える“学畜”の定義はいくつかあるけれども、わかりやすいものをひとつ挙げるならば、「大学で学ぶ内容に対して主体的でない」というのが大きな前提としてある。隙あらば講義をさぼろうとするような、休講と聞けば大いに喜ぶような、あの感じである(笑)

 

大学生に特有の様々な常識(?)や慣習を一度取っ払ってフェアに考えてみると、そういう人達に対しては、「だったら辞めてしまえばいいのでは?」という疑問が素朴に浮かんでくる。「わざわざ安くない授業料を支払っておきながら何故?」と。

 

けれども、彼らの目的は「単位を取得し、きちんと卒業すること」であるから、そうした“合理的な”判断はできない。何故なら、そうでなければ、求人市場における大卒というステータスが得られないからだ。

 

だから、眠い目をこすりながら、興味もない授業に、単位のためだけに出席する。そして、試験が近づくと、猿でもできる一夜漬けの暗記と、読むに値しないレポートのようなものを量産する。

 

何だこれは?

 

これが本当に知性のある人間の営みか?

 

「単位」というニンジンを目の前にぶら下げられて踊らされているだけのただの家畜ではないか。

 

こんな思考停止したことを4年間も繰り返していれば、その後は「単位」が「給料」に変わるだけで、ただの家畜であることは変わらない。そりゃそうだろう、という話だ。

 

ところで、“社畜”はまだ良い。いや、決して良くはないのだけど、我慢していれば一応お金がもらえるのだから、まだ救いはある。けれども、“学畜”の方は、放っておいたらお金は減る一方である。目的意識なく受け身でいるにはあまりに高額な授業料が刻々と消えていく。

 

しかも、書店に行っていくつかの分野の入門書のようなものを見てみると、大学で半年かけて学ぶような内容がたった2000~3000円で手に入ることがわかる。オレ自身も、その事実に気が付いてしまった時には、「は?」と思った。大学がいかにぼったくりであるか、そして、主体性を持たずに入学するといかに無意味な4年間になるか、ということに気付かされてしまったのだ。

 

大学受験というのはそれなりに狭き門であって、名のある大学に入るにはある程度の知的水準がなければならない。しかし、そのような知的水準を持つはずの彼らが、何故に、大学ひいては就職活動という文脈においてはこれほどまでに思考停止してしまうのだろうか。オレには疑問でならない。

 

決して、「お勉強ができるのと頭の良さは違うんだよ」などというクソのような陳腐な結論で片付けたくはない。それこそまさに思考停止だ(笑)

 

いずれにしても、大学に行くなら行くで、きちんと主体性を持って、知的ロマンを追い求めてほしい。逆に、就職予備校としての役割を求めて行くくらいなら、さっさと自分で仕事をし始めた方がいいと個人的には思う。

 

その道は確かにいばらの道だが、「家畜」としてぬるま湯に生きるよりはよほど意義がある。

 

希望的観測も大いに込めて、そう信じている。

 

 - 人生設計