賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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スルースキルという意味不明な概念

   

このインターネット全盛の時代に特有の概念としてスルースキルというものがある。もはや定義を説明するまでもなくポピュラーな表現になってしまっているけれども、正直、オレ自身としてはこの言葉もその概念自体も、感覚的にあまり意味がわからない。

 

まずもって、ひょっとしたら「突っ込んだら負け」な部分なのかもしれないけれども、あえて踏み込まずにはいられない核心ポイントがある。

 

すなわち、

「無視することに何の技術が必要なのか?」

という。

 

当然ながら和製英語ではあるけれども、スルースキルというからにはカタカナから直訳すれば「無視する技術」、あるいは多少の意訳で「受け流す技術」である。つまり、「相手に対して何も行動を起こさない」という概念に名前を付けたわけだ。

 

そもそも論として、こんな概念にご丁寧にも名前が付くというのがまずもって良くわからないけれども、まあそこはひとまず認めたとしよう。けれどもやはり、そこに何かしらの技術が介在する余地などは特にないように個人的には思える。

 

例えば、相手が実際の知り合いで、今後も良好な関係を構築していきたいと考えているのであれば、主張の食い違いを穏便におさめることに意味はあるし、その過程には確かにある種の「スキル」が必要だろう。

 

けれども、主にインターネット上で言及されるスルースキルというのはどこの誰かもわからない相手からの聞く(読む)に値しない発言に対してであって、そんな相手とまともな人間関係を築く必要はない。故に、何の反応もせずに放置してもしまってもまったく問題はない。ましてや、そこに何かしらの技術が必要だなどとはやはり何度繰り返しても思えない。

 

仮に、この一連の行為(実際には何もしないことだが)に特別な技術が必要だとするなら、逆説的に、人は通常であれば悪意のある相手に対して何らかの反応をしてしまうのが自然だということなのだろうか。

 

まあ確かに、なんとなく感覚的には理解できる気もする。悪意を向けられれば嫌な気持ちになるというのは人として当たり前の感情の動きだからだ。

 

けれども、そういった悪意に対してわざわざ時間と手間をかけてまでリアクションしようとは、個人的にはどうも思えない。なんというか、その行為にはあまりにも意義を見出しにくい。

 

思うに、一般的に「スルースキル」に乏しい人というのは、あらゆる意味で他者に対して期待しすぎているのではないだろうか。

 

きちんと注意すればやめてくれるという期待、話せばわかるという期待、自分の発言は相手にきちんと伝わっているという期待――、究極的に言えば、自分はこの世界においてきちんと敬意を持って丁重に扱われて然るべきだという、実は無意識にしてあまりにも傲慢な期待を当たり前のように多くの人が抱き過ぎている。

 

それ故に、自分の発言には当然のように“まともな”反応が返ってくるはずだという無意識の前提とでも言うべき期待値が高すぎて、いざ悪意を向けられると、「こんなはずじゃない感」に囚われてしまうのだ。

 

まずは、基本的な事実として、「誰かが賛成する主張には、誰かは反対する」、「誰かにとって好意的な対象は、誰かにとっては嫌悪の対象である」という事を理解すると良い。

 

たとえば自分が何らかの宗教の教祖様で、その信者を相手に何かを語るのでもない限り、好ましくない反応というのはあって当たり前なのだ。誰にとっても悪意なく受け入れられるといったような決して実現しない無駄な期待を捨て去ることができれば、あらゆる意味での不必要な悪意をもっと穏やかな心で存分に「スルー」できることだろう。

 

そこに技術などいらない。事実を知識として知っていれば事足りるのだ。

 

 - メディア論