賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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教育は本当に可能か

   

教育の重要性、あるいは教師の質の向上などという話題はもはや手垢がいくら付いても足りないというレベルでこれまで幾度も議論や考察が重ねられてきた。勿論、教育が重要である事は疑いようのない真理であるし、教師の質も低いよりは高い方が良いというのは当然の話だ。

 

しかし、根本的な問題として、「そもそも教育というのは本当に可能なのか」という問いに対して誠実に向き合ってきた言説というのはこれまであまり聞いたことがないように個人的には思える。現状、多くの人がこの「暗黙の大前提」をまったくもって欠片ほども疑おうとしていないのだ。

 

一体それは何故なのか。そして、果たして本当に教育は可能なのだろうか。そもそも、「教育」とは非常に崇高な行為である反面、実はとてつもなく傲慢な行為でもあるのではないだろうか。

 

そんな素朴にして意外と見落とされがちな疑問を本記事では考えていく。

 

さて、現在の日本には、まあ通常、小学校→中学校→高校→大学というように教育機関が設定されているわけだけれども、まずもって、そもそも「教育とは何ぞや」という根本的な点から問い直していきたい。

 

「教育」とは、まず漢字を分解してみると、「教えて育てる」という事になるだろう。

 

であれば、必然的に「教える側」には非常に重い責任があるという事になる。なんといっても、人様に対して何かを「教」えて、さらにその人を「育」てるわけだから、とてもじゃないが「すごくない人」にやらせて良い役目ではない。少なくとも、何かしらの分野で「すごい人」である必要があるだろう。

 

では次に、当然の事ながら「すごい人」とは何ぞや、というところに話が飛ぶ事になる。

 

さて、あなたは漠然と何気なく「すごい人」と聞いて、どんな人が思い浮かぶだろうか。

 

例えば、

 

とてつもなく頭がいい人とか、

とてつもなくイケメン(美人)な人とか、

とてつもなくお金持ちな人とか、

とてつもなくサッカーがうまい人とか、

とてつもなく絵がうまい人とか、

とてつもなく歌がうまい人とか、

 

とか、とか、とか、

 

まあ、いろいろと思い浮かぶだろう。

 

では、今の日本の教育の現場を思い浮かべたときに、およそ先生と呼ばれる人たちの中にこういう「すごい人」など本当にいるのだろうか、という話になる。

 

当然ながら、全部の教育現場をオレ自身が調べたわけじゃないので真実は知りようもないけれども、まあ少なくともオレが今まで受けてきた教育の現場にはそんな「すごい人」などいた例がない。(まあこれはオレ自身が日本の学校教育に対して批判的なバイアスを持っているからかもしれないが)

 

まあ大学教授ぐらいのレベルになるとまた少し話が違うのかもしれないが、基本的に、小学校、中学校、高校の先生というのはまったくもって「すごい人」ではない場合がほとんどだ。

 

これは、誰が言ったセリフだったか忘れてしまったけれども、非常に興味深い意見があって、

「いわゆる成功法則を教えている人の多くはその法則とやらを実践して成功しているわけではなくてその教材(?)を売って儲けているだけだ」

というものなのだけど、これは教育という行為それ自体が構造的に持っている不可避の自己矛盾のようなものを考えるときに非常に有益な知見を提供してくれているように思う。

 

どういう事かというと、まさに「じゃあお前がやれよ!」という事だ(笑)

 

……まあ、これではあまりにもあまりなので少しだけわかりやすく説明すると、基本的に、人に何か物事を教えるという行為が成り立つその背景には、その「何か」が世の中にとって「良きもの」あるいは「役立つもの」であるという前提がなくてはならないだろう。

 

そして、その知識なり能力が「良きもの」「役立つもの」であるのなら、他人に教えている暇があったら自分で実行した方が良いのでは、と当然ながら思うはずである。

 

この例として非常に顕著なのが、多くは大学の経済学部や商学部に設定されている経営学という科目だろう。経営学を教えているほとんどの大学教授は、会社を経営したことなんかあるわけがない。にもかかわらず、学生に向かって偉そうに講義をたれているわけだ。

 

本当に、茶番も甚だしい。

 

まさに、先に述べた、「じゃあお前がやれよ!」という話になる。

 

まあ、こうなってしまうのにはいくつか理由があって、まず根本的なのは、「経営学の教授」という職業に需要があるからである。当然ながら、世の中から求められれば誰かがやらねばならないのだから。

 

そういう意味においては、確かに需要と供給がマッチしているので、存在理由としての説明にはなるだろう。

 

そして、もうひとつがより致命的な理由なのだけど、「自分で実践するよりも他人に教える方が圧倒的に楽だから」である。

 

「おいおいおい」と言いたい気持ちをグッと堪えて冷静に考えてみると、実はこれは至極当然と言えば当然の事なのだ。

 

実際に会社を経営してみると、理屈通りにはいかない不確定要素だらけなわけで、なおかつ基本的にすべての責任は自分が負わなくてはならない。しかし、自分が持っている知識の範囲内で他人に教える分には事実上リスクは何もないのだ。道義的責任という側面は多少はあれども、ルール上の責任を取った結果として実害を被るということはまずありえない。

 

こうして、めでたく“茶番授業”の出来上がりという事になる。

 

まあ、今のは話を単純化するためにかなり極端な例を出したわけだけど、これとそうそう遠からざる事がかなりの数の教育システムの中で起こっているであろう事は容易に想像できる。

 

ここで、少し話がずれるけれども、基本的に多くの親というものは自分の子供に対して、できることなら自分よりも「すごい人」になってほしいと思って育てているはずである。

 

しかし、現実として、先に述べた「すごい人でなければ教育などできない」という前提が正しいとするなら、親は自分の子供を「すごい人」にすることなど不可能だという事になる。

 

何故なら、多くの親は「すごい人」ではないから。当たり前の話だ。

 

日本の多くの大人は一般的には普通のサラリーマンとして生きているわけで、そんな大人が親になって、偉そうに子供を育てようとするわけだ。

 

まったくもってすごくもないし偉くもないのに!!!

 

冷静に考えてみて頂きたい。
これはちょっと、いや、かなり恐ろしいことではないだろうか。

 

もっと話を広げてみよう。

 

例えば、小学校教師。

すごい人だと思うだろうか?

本当にすごい人だったら小学校教師なんぞやっているはずがないのだが。

 

例えば、中学校教師。

すごい人だと思うだろうか?

本当にすごい人だったら中学校教師なんぞやっているはずがないのだが。

 

例えば、高校教師。

すごい人だと思うだろうか?

本当にすごい人だったら高校教師なんぞやっているはずがないのだが。

 

上では、「大学教授ぐらいのレベルになるとまた少し話が違う」と述べたけれども、自分自身の実感を伴った正直なところで言えば、大学教授も概ね半分以上は「すごい人」などではない。いや、もちろん本人の学術的な意味での実力という面では確かに「すごい人」も数多いのだろうけど、こと「教育」という側面から見たときに、「すごい人」は皆無に等しいというのがオレ自身の印象だった。

 

何故このような不条理なことが起こるのだろうか。

 

これは、国家をあげての合法的な洗脳という側面が少なからずあるのだろうなと思う。

 

どういう事かというと、語弊を恐れずに言ってしまえば、そもそも国にとっての教育の目的は、「すごい人」を量産することではなくて、国が管理しやすい人材を量産することなのである。つまり、「常識的で、従順で、目上の者に逆らわない、扱いやすいエリート」を育てることが目的なわけだ。

 

一体これは何故なのか。

 

それは、国がうまく管理しきれないような人材が量産されてしまうと、国がうまく管理できないからである。

 

いや、なんというか、これではあまりにもトートロジー過ぎる(笑)

 

つまり、どういう事かというと、国が管理しきれないような人材が増えてしまうと、今の日本の教育というものがいかに茶番であるかというのが国民にバレてしまうからである。

 

そりゃそうだという話だ。

 

例えば、小学校なんかで、教師が、

「君たちには無限の可能性があります!」

「自由にいろんなことにチャレンジしましょう!」

などと歯の浮くような事をドヤ顔で語ってしまっているが、

 

「いやいやいや、それを言っているあんたら、そもそも公務員じゃねえか」という(笑)

 

いかに茶番かという事が丸わかりである。

 

本当に「すごい人」なら他人に教えている暇があったら自分で実行する。

 

また、これも誰が言っていたセリフだったか忘れたけれども、

「この世でもっとも信用できない職業は詐欺師ではなくコンサルタントである」

というものがある。

 

まあ、もちろん比喩なので多分に誇張が含まれてはいるのだろうけど、言いたいことは非常によくわかる(笑)

 

ともあれ、教育という行為が構造的に持つ自己矛盾を少しは感覚的に理解して頂けたかと思う。つまり、基本的に教育の現場には「すごくない人」しかいないのだという事だ。

 

しかし、これで話が終わってしまってはあまりにも救いがない。

 

「すごい人」がいないのはわかったと。では、いったい我々は誰から学べば自己を成長させることができるのかという話になってくる。

 

で、誤解を恐れずに結論から言ってしまうと、

 

誰から学んだって大丈夫なのである(笑)

 

いやいやいや、待てと。

散々いろいろ言ってきて結論がそれかよ!

 

と、思われるかもしれないけれども、本当にそうなのだ。

 

どういう事かというと、重要なのは、「誰から学ぶか」という直接的な話ではなくて、「どのような意識で学ぶのか」という事なのである。

 

そもそも、本来は、何かしらの知識や能力を身に付けたいという思いが先にあって、じゃあどうやって学ぼうかな、というように感情が動くのが正常なはずだ。

 

ところが、昨今の中学生、高校生を見てみると、

「まあ、とりあえず高校は行くよね」

「まあ、とりあえず大学は行くよね」

というノリがほとんどだろう。何を隠そう、オレ自身がそうだったから間違いない。

 

しかし、これでは正直、国の思うツボだ。

 

目的意識が曖昧なまま教育を受けることに何の疑問も持っていない。

 

まあ、教育機関だからといって教育という要素だけが重要なわけではないという事は普通に理解できる。人間関係やその他の体験価値などもいろいろとあるのだろう。

 

しかし、その無批判に既存のシステムを受け入れるという姿勢が、もはや「暗黙の常識」に洗脳されてしまっている。

 

「こうあるべきだ」

「こうでなくてはいけない」

 

などなど、一般的に常識だと思われていることの多くは、実は「すごくない人」にとっての常識なのだ。なぜなら、「すごい人」なんて滅多にいないわけで、単純な人数で多数決を取ったら「すごくない人」の圧勝なのだから。

 

故に、その感性が常識として浸透してしまうことになるのだ。

 

ここに気付けないまま無批判に既存のシステムに乗っかっていると、まさに国家によってカモにされてしまう事になる。

 

少しまとめると、誰から学んでも別に良いのだけど、自分が何のためにそれをやっているのかという部分は常に意識して学ぶべきだということである。

 

そして、多くの場合、常識であるらしいことを無批判に受け入れすぎることは非常にリスクが高いという事だ。

 

で、一番初めに立てた問いである「そもそも教育というのは本当に可能なのか」ということなのだけど、もう結論を言ってしまおう。

 

人を「教」えて「育」てるという意味における教育は、多くの場合、教える側がはっきり言って完全に実力不足であるため、理想的な形で実現することは不可能ではないにしても非常に困難であると言えるだろう。

 

しかし、教育とはそもそも、教えを受けた相手が、どうあれ何らかの成長を見せれば一応は本来の目的にかなうという意味では成功なのである。そうであれば、教える側がいかに実力不足であろうと、学びとる側が目的意識を明確に持っていればいくらでも自己を成長させることは可能になる。

 

そういう意味においては、決して教育という行為自体は否定すべきものではないし、非常に意義深い行為であるといえるだろう。

 

なんにせよ、ここまで長々と述べてきたけれども、こういったことを普段から意識するだけでも確実に感性というのは変わってくるはずだ。

 

今の時代の若い人、あるいはその親の世代の人には、ぜひとも真摯な姿勢で考えてみて欲しいと思う。

 

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