賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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財力、暴力、それ以上に知識

   

知識というのはこの世界を支配するいくつかの重要なファクターの中でも極めてスタートが平等であり、不確実性の少ないもののひとつなのだけど、意外とそのような視点で知識というものを捉えている人というのは少ない気がする。

 

とまあ、いきなり言われても何のことやらわからないと思うので、知識というものの話に入る前に、少しオレが今から言いたいことの前提となる話をする。

 

まず、上で述べた、「この世界を支配するいくつかの重要なファクター」という表現は、言い換えれば、「どのようなファクターによってこの世界は支配できるのか」という問いに対する答えにあたるものの事である。(「ファクター」とは日本語に訳すると「要素」)

 

それは、当然ながら知識だけではなくていくつか(場合によってはいくつも)あるのだけど、オレの解釈では、最も根本的なものとして大きく分けて三つ挙げることができる。

 

その三つとは、すなわち「財力」、「暴力」、「知識」である。

 

どうだろうか。意外か、それとも予想通りか。まあ、いずれにしても説明していく。

 

まずひとつ目の「財力」というのは、読んで字のごとく明らかだけど、単純に「お金をどれだけ持っているか」という事である。

 

「資本力」や「資金力」と言い換えても良い。

 

まあ、こういう風に言ってしまうと、なんというか身も蓋もない話に聞こえてくるかもしれないけれども、決して拝金主義的な話をしたいのではない。

 

そういうことではなくて、もっと素朴に純粋に、我々が生きているこの現代社会というのは、我々の実生活に如実に影響を与える「経済」という重要な文脈において、紛れもなく、逃れようもなく、「資本主義」という大きな枠組みの中で営まれているのだ。

 

かつては、貨幣を媒介としない直接的な物々交換の時代や、全てのリソースを平等に分配するという(どう考えても不可能な)理念に基づく共産主義の時代も場合(場所)によってはあったわけだけど、現在のパラダイムにおいては「資本主義」は疑いようもなくこの世界を支配しているシステムなのである。

 

では、「資本主義」の世の中ではなぜ「資本力」が重要なファクターであるのか。

 

いや、そんなの当り前だろうという反応は至極もっともで、本来はなぜもクソもないことなのだけど、改めてきちんと論理的に説明すると以下のようになる。

 

しかしその前に、まずはここで「主義」という言葉の意味をきちんと認識しておかなければならない。

 

一般的な日常語として、あまり「主義」という単語を使うことは多くないので、意外と言葉の意味まできちんと意識している人は少ないのではないだろうか。その一方で、特に「主義」という言葉の意味を気にしなくても日常で普通に会話ができてしまうというのも一面の事実ではある。

 

一般に「○○主義」といった場合の「主義」という言葉は、「○○を非常に重要視する考え方」という言葉で置き換えると理解しやすいのではないかなと思う。

 

例えば、「完璧主義」な人がいた場合、その人は「完璧であることを非常に重要視している」人であると言えるだろう。

 

同様に、

「自由主義」であれば「自由」を、
「利己主義」であれば「自分の利益」を、
「博愛主義」であれば「人を愛すること」を、

それぞれ「非常に重要視している」わけだ。

 

そういう意味で、「資本主義」とは「資本(=財力)を非常に重要視する」という考え方であり、我々は今この社会に生きる限りにおいて、好むと好まざるとに関わらず、この「資本主義」という枠組みから外れることは不可能なのだ。

 

であれば、当然ながら財力(=資本)があればあるほど、つまり、イヤラシイ言い方をするなら、お金を持っていれば持っているほど他者に対する影響力は増していくことになる。言い換えれば、社会(組織)の制度設計における意思決定権者に近づけるという事だ。

 

これが、まずひとつ目の「財力」という要素によってこの世界を支配することができるという事の意味である。

 

決して、「世の中やっぱりお金だよね」みたいな安っぽい話ではない。
「資本主義」という概念の根本的な存在理由に関わる部分の重要な話である。

 

さて、次に「暴力」という要素の説明をしよう。

 

これはまた非常に乱暴な言葉であり、一般的には良いものではないとされている概念だけど、意外にもこの世界の中で非常に強い影響力を持つ要素となる。

 

「殴られたら痛い」
「ヤンキーって怖い」
「ヤクザに理屈は通じない」
「どんな権力者でも撃たれたら死ぬ」
「戦争になったらもはや個人ではどうしようもない」

 

オレが言いたい事のイメージを漠然とでも掴みやすくするために、このようにいくつか印象的なフレーズを挙げてみたけれども、どうだろうか。

 

これらというのは、「倫理的にどうなのか」という点はひとまず置いておくと、世の中のひとつの側面としてどうにも抗いようのない事実であることは認めざるを得ないだろう。

 

明らかに理屈では間違っていても、何か恐そうな人には逆らえない……。

 

誰しも、このような経験をしたことがあるのではないだろうか。

 

こういった経験というのは年齢が低ければ低いほどありがちなのだけど、一般的な大人の社会(というかむしろ世界)においても、程度の差こそあれ、これと似たような構図はしばしば表れてくる。

 

実際、どう見てもナヨナヨしたひょろい人と、明らかに体格の良い精悍な人では、同じ事を言っていた場合にどちらの言うことを聞きたいですかという話だ。このような場合において、両者が持っている資本力の多寡はもはやほとんど関係がない。

 

これは何も、実際の殴る蹴るの実力の問題ではなくて、暴力的な強さを連想させるような力強いオーラとでも言うべきものが対人の関係としては重要になってくるという事である。

 

世界を支配するひとつ目の要素として「財力」を挙げたけれども、ある限られた場合によっては「暴力」による支配がそれを上回ることも可能であるという事が言えるのだ。

 

さて、最後にようやく「知識」の話に入る。

 

「知識」による世界の支配がなぜ可能なのか。

 

大きな理由はふたつあるけれども、まずひとつ目は、知識による資本(=財力)の増加が可能であるという点である。

 

これは一体どういうことか。

 

(ひとまず現代社会が資本主義という経済システムで成り立っているという大きな前提を踏まえた上での話をする)

 

当たり前の事だけど、資本(=お金)というのは、放っておいて勝手に増えたり減ったりするものでは決してない。必ず増える理由と減る理由があるのだ。そうであれば、その「理由」にあたる部分を「知識」として知っていれば、増える理由にあたる行動を積極的に実行し、逆に減る理由にあたる行動を制限する事で、理屈の上では知識による資本の増加は可能だという事になる。

 

(実際には、世の中に「増える理由にあたる行動」がどのようなものか知らない人があまりにも多いためにお金に関する悩みはいつの時代も後を絶たないのだけれども……)

 

そして、「知識」による世界の支配を可能にするふたつ目の理由は、これが本記事のもっとも核心に迫る部分であり、最初に述べた「知識は極めてスタートが平等であり、不確実性の少ないもののひとつ」であるという事の本質的な意味である。

 

それは何かというと、「人は生まれ落ちた瞬間には全く何も知らない」という事だ。

 

言われてみれば「なんだ、そんなことか」といった感じで当たり前なのだけど、ここが決定的に重要な部分である。

 

つまり、「財力」(=資本力)というのは、どんな家に生まれたかによってスタートから既に差があるのだ。(金持ちの家に生まれるか中流家庭に生まれるか貧乏な家に生まれるかを自分で選ぶ事はできないのだから)

 

そして、もしこの生まれたときの差が後天的な努力によって逆転できないとしたらどうなるだろうか。

 

身分制度……世襲制……運命論……。

 

なんと言っても良いのだけど、いずれにせよ、前向きに努力する意志が健全に育まれるような社会ではない事は想像に難くないだろう。

 

そのような意味において、この「知識」というものは先天的にはゼロという意味で全ての人間に平等であり、かつ後天的にいくらでも挽回可能な要素によって「財力(=資本力)」という大きな支配力を獲得していく事が可能である。

 

そして、それこそが現在の資本主義というシステムを成り立たせている根幹の部分であり、ひいては「知識」というものが強大な支配力であると言える最大の理由なのだ。

 

何より、あらゆる“資産”の中で知識だけは死なない限り誰にも奪われることがない。

 

やはり、どう考えても最強の支配力なのだなと思わずにはいられない。

 

 - 思考