賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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年功序列とは老害の戯言であって、もはやクソの役にも立たない

   

いわゆる体育会系みたいな組織では未だに根強いのであろう年功序列や上下関係というものはもはや既に役目を終えている概念なのだから、綺麗さっぱり消えてなくなった方が世のため人のためになるとオレは信じている。とりわけ若い世代の人々は共感してくれやすいだろう。

 

オレ自身、昔から「年齢」という「努力でどうしようもない要因」によって上下関係が決定されるという風習というかカルチャーがまったくもって意味不明であって、そういう考え方に対して異を唱えようともしない“大衆”のような振る舞いは反吐が出るほど嫌いであったけれども、そういったオレ個人の感情論とはまた別の文脈として、本記事では「年功序列」というものを考えてみる。

 

さて、「年功序列」というものを考えていくにあたって、少し話を広げて、もっと包括的な概念としての「権力」というものをまずは社会学的な切り口で考えてみようと思う。

 

第一に、そもそも「権力」というのは一体、何によって担保されていたのだろうか。もちろん、それぞれの時代における背景が密接に影響していた事は確かではあるのだけど、端的に言えばどのような要因によってであろうか。

 

それはずばり、「秘密」によってである。「権力」というのは「自分が知らないことをあの御方は知っておられる」という状況が生み出す関係なのである。現代的な言葉でより理解しやすい表現をするなら、「情報格差」によって「権力」というものは担保されているのだと言える。

 

意外だろうか。それとも予想通りか。

 

いずれにしても、これは非常に重要な知見であって、この「情報格差」というものがなぜ生じるのか、その条件とでもいうべきものが何であるのかを理解できているなら、既にオレの言いたい事が何なのか想像が付くであろう。

 

人類の歴史の中で、最初期の「権力」というものには多分に宗教的なニュアンスが含まれていた。それは今の時代でいうところのキリスト教・仏教・イスラム教などのようにある種の経典によって体系化されたものではなくて、もっとアバウトな信仰によるものだったはずだけど、ある集団なり部族なりの中で誰かが「神のお告げ」とでも言うべきものを聞いて、それを下々の者たちまで伝えるという役割を担った。ちょうど日本で言えば、卑弥呼などがそういうポジションにいたのだろう。

 

その昔、つまり古代においては、その「神のお告げ」の存在を疑う者などいなかった。いわば、その「神秘性」そのものが権威であったのだ。したがって、ある限られた上層部(「神のお告げ」を聞く事ができる人々)とそれ以外の人々との間に「情報格差」が当然のように生まれる事になる。

 

そうなれば、その「情報格差」を埋めたいと思えば権力者の言う事には従わなければならない。それ以外に「何かを知る事」を実現する手段がないのだから。もっとストレートに言えば、「情報格差」があると信じ込まされているからこそ、従わざるを得ない(反論の材料が与えられていない)という事だ。

 

さて、19世紀も終盤、ニーチェは自身の著作で「神は死んだ」と述べた。

 

まあ、だからどうだという話では別にないのだけど、このセリフによってニーチェが伝えたかった事の本質は、本記事で述べてきたような「権力」を担保するべき「秘密」(つまり信仰の対象という存在が生み出す「情報格差」)がもはやまったく神秘性を保っていないという事なのだろう。たぶん。おそらく。そういう解釈もできなくはない。

 

つまり、歴史に名を残すような哲学者が時代を観察してみた実感として「もはやそんなもので権力は担保できない」という理解に至ったのだ。(実は、ここでニーチェが使っている「神」という単語は一般的な宗教上の創造主体としての「神」とは少し定義が異なるのだけど、そこは別に今はどうでも良い)

 

これは当然と言えば当然だ。当時からすれば、まだまだ通信手段の発達は遠い未来の話とはいえ、人類が積み重ねてきた叡智というものを少し紐解いてみれば、もはや「情報格差」なんて自分の努力によっていくらでも埋めることができる。つまり、「権力」というものにわざわざ従うという必要性が薄れていたのだ。

 

この構図がさらに顕著になったのが現代である。特に、書籍やインターネットという情報伝達のインフラが高度に整備されたことにより、もはや「権力」と「情報格差」は何の因果関係も持たなくなった。

 

わざわざ頭の古い年寄りに頭を下げて教えを乞う必要性は極めて薄い。理不尽に対してじっと耐え忍ぶ事が何の意味も持たなくなっているのだから。

 

そもそも年功序列というものが成り立つ背景には、若者がその意味不明な関係性を耐え忍んでもなお手に入れたい何かがあるという前提がある。しかし、もはやこの現代においては、そんな関係性は意味をなさない。「誰から学ぶか」、「何から学ぶか」、そういうものがいくらでも自由意思で選べる時代である。そんな中でわざわざ頭の古くて固い老害などに誰が付き従うものか。

 

そう、まさに老害である。

 

若者に「ついていけねえ」と少しでも思われた時点で、どんなに若くてもその誰かは老害に成り下がる。もし若者に敬意を持って接してほしいのであれば、年長者の方から真心でもって歩み寄るべきだ。何故なら、若者の側からすれば、「別にお前についていく必要がない」といつでも言えるのだから。

 

もっとエグい事をあえて言ってしまえば、「どうせ先に死ぬんだから放っておけ」といった感じになるだろうか(笑)

 

これは冗談のようでいて意外と本心でもある。何故なら、未来の世界は常に自分よりも下の世代が創っていくものなのだから。むしろ、若者こそが重要視され、丁重に扱われるべきだとすら思う。

 

もちろん、オレ自身、少しばかり過剰に年功序列や上下関係みたいなものを嫌い過ぎている節は確かにあるのかもしれない。けれども、これは決してそんな感情論だけの話ではなくて、きちんと理屈で説明がつくものだ。

 

年功序列というものは、もはや既に役目を終えている。それを理解できずに、下の世代に古い考えを押し付けようものなら、それはただの老害の戯言である。おそらくは若者たちも形の上では従っていても、心の中では鼻で笑っている。

 

いずれ自分が若者ではなくなったとき、そんな老害になっていない事を願うばかりである。

 

 - 思考