賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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テクノロジーと人間

   

あらゆる分野において、技術の進歩というものは著しい。産業の効率化という側面から見れば、それは非常に望ましい事だ。けれども、過剰に発達したテクノロジーはやがて人間の存在意義を奪うのではないだろうか。そんな危惧が我々の心の中にうっすらと生まれ始めている。

 

この現代という高度に発達した情報化社会にあって、様々な産業分野のあらゆる局面におけるIT化とそれに伴うグローバル化はもはや止めようがない。進化とは文字通り、進んでしまった以上は不可逆なものであるからだ。

 

そういった現実を伝える具体例を次々と挙げていくとキリがないので省略するけれども、多くの現場において人間の働き場所を奪うような技術(に基づく機械やシステム)がどんどん開発されている。

 

国家や社会というものを健全に運営していくには、いつの時代も経済成長が不可欠である。かつては、経済成長の前提である様々な産業の発達というものは同時に自然と雇用を生み出していた。モノづくりには人手がいる。流通させるためにも人手がいる。事業の規模が大きくなれば管理するにも人手がいる。あらゆる産業における経済への貢献は雇用の創出とイコールだったのである。

 

けれども、ここ最近の技術の進歩を見る限り、そういった構図はもはや当てはまらない。当然ながら、あらゆる企業は生産性の向上を目指す。そこは今も昔も同じだ。しかし、まさにその「生産性の向上」、ひいてはその結果としての「経済成長」というものが現代においては、もはや「雇用の創出」を生まないのである。

 

少し専門的な文脈で出てくる表現を使えば、「ジョブレス・リカバリー」とでも言うべき現象が起こる。つまり、「仕事がない経済回復」である。かつてはトップクラスの収入レベルであると言われてきた医者という職業でさえ、徐々に徐々に、医療ロボットなどというものの出現によってその地位を脅かされつつある。そんな例は、あらゆる業界でいくつも見てとれるのだ。

 

この流れは、未だかつて歴史上に類を見ないほどの早さであり、由々しき事態である。過去においても産業革命というものは確かにあったが、それらはいずれもこれほどまでに急激な変化ではなかったし、そもそも人間の産業的な活動領域を促進するものだった。それが、この現代においては、産業構造の変化が逆に人間の活動領域を奪う事に繋がってしまうという現実。これは未だかつてなかった事だ。(実際には一部の分野では昔からあったのだけど、本質的にそれらとは意味が違う)

 

さて、このようなシナリオが行き着くところまで行ってしまった場合、未来はどうなるのだろうか。

 

これは、ある意味でオレ自身の想像というか妄想が半分ほど入っている気もするし、実際にそこまで劇的な変化を世界が受け入れるかどうかという点において幾分、疑問は残るけれども、最終的にはひとつの極論として、スポーツとエンターテイメントと知識創造系の産業しか人間の職業的な活動領域というのは残らないのではないかと思っている。

 

スーパーカーや新幹線がどれだけ発達しても、陸上の100m走には観る者の魂を揺さぶるようなロマンがある。初音ミクがどれだけ正確に歌おうと、人間のヴォーカリストの評価は一向に下がる気配がない。統計的な処理や計算がいくら早くできても、既存の概念を融合させることで新たなアイデアを生み出すことはできない。

 

そういう意味で、スポーツとエンターテイメントと知識創造産業だけは技術(に基づいた機械やシステム)による代替が最後まで不可能な分野であろうと思う。

 

本当に極端な話をすれば、人間の頭脳が持つ能力のうち左脳が担当する領域に関しては機械が本気を出したらもう勝てるわけがない。論理や数値処理でコンピュータと競争できるわけがないのだから。逆に言えば、右脳が持つアイデア力・感性・説明不可能な突然の閃きなどが人間に残された最後の領域になってしまうのかもしれない。

 

そんな未来が本当に来るのか。仮に来るとしても、どの程度の年月を経てそこへ至るのか。はたまた、本記事で述べたような発想は完全な誤りか。

 

いずれにしても、未来を見据えて、人間(というより自分自身)の役割を考えてみる事には大きな意味があるだろう。

 

 - 思考