賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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「自己責任」という無自覚な思考放棄

   

「自己責任」という言葉を聞いてどういう印象を抱くだろうか。もし困ったときにも他者を頼ったりできないといった感じか。あるいは、「自業自得」と似たようなニュアンスとして使う事もあるだろう。どちらも決して間違ってはいないが、重大な罠をひとつ見落としている。

 

まず、「自己責任」という言葉は一体、誰(どういう状況にいる人物)が発するものなのか。それによって話は大きく違ってくる。

 

例えば、何か行動をしようとする人がいる。その行動は周囲から見れば「おそらく良い結果は生まない」、加えて「おそらく本人は何らかの損害を被る」と感じられたとしよう。そして、いざ実行したら、大方の予想通り、その本人にとって望ましくない結果が出たとする。そういった場合に、周囲の人間が「自己責任だ」という言葉を使うのはごく自然であって、適切な使い方であると言えるだろう。周囲からすれば、「当然のように予想できる結果に考えが至らずに無茶をしたお前が悪い」という事だからだ。とてもシンプルである。

 

このように、本来「自己責任」という言葉は何か無茶な事をしようとしている人間に対して、周囲の人間が「どうなっても知らないぞ」という気持ちを込めて使う言葉である。

 

けれども、この「自己責任」という言葉を何らかの行動を起こす側が使ってしまう事がしばしばある。これは正直、あまりに軽率であり、同時に非常に傲慢なことだと個人的には考えている。

 

「自己責任」という言葉を、その意味に対して誠実に解釈するなら、「自分で責任が取れるレベルの行動しかしてはいけない」という事が容易に推論されるはずである。何故なら、「自己責任」とは文字通り「自己」で「責任」を取るという意味なのだから。つまり、本来は、何かが起こっても他者の手を煩わせてはいけないという事になる。他者の手を煩わせてしまったという事は「自己」で「責任」を取りきれていないわけだから。

 

昨今メディアでしばしば報道されるように、危険な地域に自らの意思で足を踏み入れようとするような人々がよく口にする「自己責任」という言葉はまさにそれである。

 

あまりに無思慮。あるいは想像力の欠如である。

 

「自己責任」などと口では何とでも言えるが、実際にそういった人々が危険にさらされた際には、国家レベルの労力をかけて救出(あるいは交渉)のために動かなければいけない場合もあるのだ。

 

これのどこが「自己責任」なのだろうか。個人の安全を確保するために組織が動いている。どこが「自己」の「責任」なのか。

 

もちろん、「誰もそんな事は頼んでいない」という反論があるだろう。しかし、そんなアホな理屈は通用しない。その理屈が通るためには「日本は国際社会の中で自国民の安全を無視する国である」という風評被害によって生じる損害なども賠償する能力がなければならない。そこまでの責任能力があって初めて「自己責任」である。

 

「責任感」と「責任能力」はイコールではない。むしろ、「責任能力」がないのに「責任感」だけがあったら、それはもはやただの嘘つきである。

 

「自己責任ですから」と言っていれば済むものではない。自分で責任が取れない領域というのは人間いくらでもあるのだ。(逆に言えば、人間がひとりですべての責任を取れるような状況の方がむしろ稀ではないか)

 

当然、そういう言葉を使ってしまいがちな人々というのも悪意があるわけではないだろう。けれども、その無自覚な想像力の欠如がどれだけの人の手を煩わせる事になるか。

 

自戒も込めて、改めて自分の行動を見直す契機とするべきだろう。

 

 - 思考