賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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ビッグデータとプライバシー

   

現代における情報化社会の発展というものは、その速さが過去に類を見ないほどに著しい。歴史学の意義というものを考えてみると、情報の蓄積から浮かび上がってくる教訓を後の世に生かすという意味で、そのリソースの増加と体系化の恩恵は計り知れないだろう。

 

また、統計学という視点からも、元となるデータが多ければ多いほど予測は正確になっていく。やはり、情報の体系化が重要なのである。

 

ビジネスの現場においても、情報というものが鍵を握る局面というのは数多い。Amazonなどの「この商品を買った人はこちらの商品も……」みたいなスキームというのは、まさに膨大な顧客データベースの為せる技である。

 

例を挙げればいくらでもある。もし興味があれば、少し調べれば既に現存するそういった事例や未来のシミュレーションはいくらでも出てくる。ともかく、あらゆる情報というものを集められるだけ集めて体系的に管理しておけば、様々な分野で問題解決や効率的な業務の遂行に大いに役立つのだ。

 

さて、こういった膨大な情報群という概念を「ビッグデータ」と呼ぶ。より正確に言えば、「ビッグデータ」という概念が現代において新しく登場してきたわけでは別になくて、かつてここまで網羅的かつ異常な速度で増加していく情報体系というものがなかったので、「膨大な情報群」という状況がそもそも生まれ得なかったという事である。

 

と、まあこのように異常なほどの速度で増加し体系化されていくのが現代の情報というものである。Googleなどもそういった流れに大きく寄与している。

 

けれども、この流れが行き着くところまで行くと、我々が生きる現実は一体どうなるのだろうか。

 

この問いはあらゆる視点から考える事ができるので、唯一の答えというものがあるわけでは決してない。けれども、ひとつ本記事では「プライバシー」という論点に絞って考えてみようと思う。

 

あらゆる情報が体系化されて様々な分野で有効に活用される。これだけ見ると、普通に良き事であるように思える。しかし、その「情報」は本当に自分が望んで世に出したものなのだろうか。実は無自覚に情報を明け渡してはいないか。

 

決して、TwitterやFacebookにおける不用意な書き込みの事ではない。そんな次元の話ではない。あんなものは投稿するその瞬間まで自分のさじ加減ひとつでどうにでもなるのだから、ここで言う「無自覚」の範疇では当然ない。

 

そうではなくて、例えば、Amazonの購入履歴などはまだマシな方だ。Cookieなどに代表されるような類のある種の設定によっては、どのPCからどのようなwebサイトにアクセスしたのかという履歴がすべて把握できたりもする。

 

防犯カメラなどもそうだろう。犯人の特定には確かに役立つ。けれども、何の関係もない赤の他人(もしかしたら、あなたかもしれない)がその時間にその場所にいたという事実を自ら望んで公開したいわけはない。

 

医療の分野でもそういう事がある。誰がいつどの病気にかかったのか。どういう生活環境の人がその病気になりやすいのか。過去にどのような治療をしたのか。そういった膨大なデータの一角をなすものとして、知らぬ間にあなたの個人情報が利用されているのだ。

 

情報に基づいた未来の予測は確かに合理的だろう。けれども、その合理化の過程に、本来は当たり前に守られるべき人権が忘れ去られてしまうなどという事があってはならない。

 

情報というものを突き詰めていくと、最終的に行き着くのは、日々更新されていく人間の行動、つまり個人情報である。そんなものを誰かが一方的に管理して利用するという行為は果たして倫理に反しないのだろうか。

 

ビッグデータとプライバシーは最終的にはトレードオフである。決して、便利なだけの魔法の道具ではない。これからの時代は特に、本当の意味でそこを理解する事が非常に重要であろうと思う。

 

 - 思考