賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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もはや誕生日があまり嬉しくないお年頃

   

20歳を過ぎてからというもの、だんだんと誕生日がきても嬉しくなくなってくるどころか、もはや逆に若さを失う事に対する悲哀の念を禁じ得ない。なんというか、20代から30代に向かっていく事への心理的な抵抗感が自分の中で物凄い。難儀な事だ。

 

というわけで、本日、4月17日は桐峰矜の誕生日である。早いもので、もう20代もだいぶ深まってきた。

 

本来、年齢などというものは人間(能力・性格などすべて含む)を評価するにあたって、まったく本質的な評価の指標ではない。だから、気にしなければ良いと言えばそれまでなのだけど、やはり、若さを失っていくという抗いようもない事実を客観的な数字でもって改めて突き付けられるというのは、あまり良い気持ちはしない。

 

思えば、オレは昔から、誕生日の一体何が喜ばしい事なのか、冷静に考えてあまり良くわからなかったし、「お誕生日おめでとう」という言葉にも少なからず疑問を持っていた。端的に言えば、何を祝われているのかがあまり理解できないのだ。(もちろん、だからと言って、殊更に拒絶したりはしないし、気分を害したりもしない。そもそも性格的にパーティー的な事は嫌いではない)

 

ただ、オレの中で、「祝う」というのは自分(とその仲間)の頑張りによって何かを成し遂げた場合に、その成果を周囲が労う形で発生する概念であって、一年に一回、何の努力も必要なく予定調和的に訪れる日付に特別な意味があるとはあまり思えない。だから、例えば、10歳とか18歳とか20歳のように、桁が変わるだとか、法律的な扱いが変わるみたいな場合にはもちろん多少の感慨は生まれた。

 

けれども、その後、21歳が22歳になろうが、22歳が23歳になろうが、「だから何?」といった印象がオレの中では強い。

 

こんな事を書いていると、いわゆる「記念日を忘れるような男」なのかと思われるかもしれないが、それはまったくの的外れだ。「記念日」というのはその始まりの日付に意味がきちんとあるし、自分と相手がきちんと「判断」と「選択」をした結果としてのものだ。重要視しないわけがないだろう。

 

そういう意味では、誕生日には、その本人ではなくて両親を祝うのが道理と言えるのかもしれないな(笑)

 

つまり、オレは自分でコントロールできない要素で周囲が勝手に盛り上がるのをあまり好まない性格なのだという事なのだろう。

 

まあ、この考え方も80歳90歳という年を重ねた事実そのものが価値を持つようなレベルになったらまた変わってくるのかもしれない。「老い」に対する抵抗感よりも「長生き」に対する喜びが勝る段階というのも当然あるだろう。

 

けれども、まだまだオレはそのステージにはいない。まだまだ若さを失いたくないと思っている。

 

もちろん実年齢も重要だが、それ以上に、メンタル的に若さを失ったらオレの中で何かがひとつ終わる気がしている。それが具体的に何なのかはわからないが。まあ、ある種の中二病的な感性だろう。

 

オリジナリティというかクリエイティビティのようなものを追求したいと思っている人間にとって、若い感性を失う事は死に等しい。

 

まだまだこれからも、必死で若作りをしていこうと思う(笑)

 

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