賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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人はなぜ生きていくのか

   

世界に名だたる思想家や哲学者が一生を費やしてもなお確たる答えなど出せないような命題である。それをブログの記事たったひとつで書いてしまおうなどとは傲慢にも程がある。そんな暴挙に、ちょうど昨日ひとつ齢を重ねたばかりの若造が若造なりの感性でもって挑もう。

 

若いからこそ、言える事もある。というより、この記事は現時点でのオレの感性がどのようなものであるのかというのを書き残しておくという意味合いが強い。数年後に読み返して、まだまだ青かったと鼻で笑う事になるのか、よくぞ若くしてこの域までたどり着いたと感嘆するのか。それはいずれ訪れる未来へのお楽しみである。

 

さて、本題だ。人はなぜ生きていくのか。

 

考えてみれば、これほどまでに矛盾を孕んだ問いも珍しいだろう。何故なら、この問いに答えられないという事は、「あなたはなぜ生きていくのですか」という問いに対しても、同様に答えられないという事になるからだ。けれども、それでは世の中というのは確たる存在理由もなく、ただ存在している人々ばかりなのか、という事になってしまう。決して、そうではないはずだ。しかし、希代の哲学者たちの頭脳をもってしても簡単には答えなど出せないときている。おやおや。これは一体どういう事なのだろうか。

 

なぜ、この問いは難しいのか。最も根本的かつ身も蓋もない答えをひとつ挙げるとするなら、種の保存というのは生物的な本能だからである。本当に身も蓋もない。いわゆる自我などによって認識できる存在理由なんて種の保存という観点からはまったく必要ないのである。

 

しかし、これではあまりにも不毛に過ぎる。人間を動物扱いしているという点においても、あまりに不健全だ。そうではなくて、あくまできちんと「人間」として「なぜ存在しているのか」という問いを考えなくてはならない。

 

ここで、「自我」という概念について少し考えてみる。ウイリアム・マズローが提唱する欲求5段階説によれば、「自我」というものが真の意味で芽生えるには、自分の人生のステージをある程度まで高める事が求められる。つまり、多くの人は「私は本当の意味では何者なのだろうか」という問いを真の意味で抱くところまでたどり着けないのだ。

 

まあ、世の中そんなものだよねと言われれば確かにそれまでだ。しかし、逆に言えば、「そんなもの」であっても社会というものが構造的に成り立っているという現実を見たときに、「人はなぜ生きていくのか」という問いに答えなど出せないと考えるのも非常に良く理解できる。

 

そういった事を理解してもなお、オレの中でこの問いに対する答えは明確である。いささか理想論というか綺麗事のように聞こえるかもしれないけれども、それでも構わない。

 

人はなぜ生きていくのか。

 

それは、「この世界(もっと大袈裟に言えば宇宙)の中に価値を増していくため」である。そのために人は生きている。というより、そのために生きるべきなのである。

 

人類の、というより、あらゆる分野において、歴史の流れというのは大きな意味では「進化・進歩・改善・最適化の過程」であると定義できるだろう。そうであれば、その過程を構成するひとつの要素として、少しでもそれに貢献できる事があればとても喜ばしい事であり、それこそが我々に課せられた役割であるとも言える。

 

その具体的な方法論は個々に選び、学び、実践するしかない。情熱の持てるものを選んでも良い。他者(市場)に評価されやすいものを極めても良い。いずれにしても、「この世界に少しでも価値を増すのだ」という根本的な意識こそが最も重要であろうと思う。

 

人はなぜ生きていくのか。

 

それは、この世界の中に少しでも価値を増していくためである。

 

今のところ、オレはそう思って毎日を生きている。

 

 - 思考