賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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礼節とユーモアはトレードオフである

   

「面白さ」というのは一体どのように生まれるのだろうか。お笑い芸人などに代表されるように、「面白さ」というものを追求するプロフェッショナルがこれだけ数多く存在する現代において、その具体的な方法論は幾つも挙げる事ができるだろう。

 

その中で、本記事では「礼節」というものが「笑い」に及ぼす影響について考えてみる。

 

タイトルにもあるように、「礼節」と「面白さ」というのは究極的にはトレードオフなのではないかと思う。というより、正確には、「面白さ」を生み出すためにはどこかで礼節を犠牲にする必要がある。

 

日本における「笑い」というものは基本的に「ボケ」と「ツッコミ」によって成り立つとされている。わざとふざける。そして、それを修正する。最近ではフットボールアワーの後藤輝基のように、ツッコミがもはや新たなボケと化している場合もある。技術の進歩というのはどの分野においても著しいなと思う次第だ。

 

さて、そんな「ボケ」と「ツッコミ」であるけれども、このいずれも「礼節」というものをある程度まで犠牲にする事によって成り立っているという事が理解できるだろうか。そもそも、気心の知れていない目上の相手に対して、会話の中で「わざとふざける」などという事はありえない。あるいは、公的な場面で「相手を突き放すように誤りを指摘する」などという事もまず考えられないだろう。

 

ましてや、最近のバラエティ番組の潮流(のひとつ)となりつつある「イジリ芸」などは特にそれが顕著であって、もはや芸人に人権などないのだろうかと思ったりもする(笑)

 

これは決して、テレビの中だけの話ではない。我々のような一般人が日常を生きるにあたっても、こういう局面というのはしばしば存在する。

 

確かに、同年代の仲間だけとの関係性においては、あまり気にする事はないのかもしれない。けれども、年齢差のある集団において、会話の中に面白みを出そうとするなら、ほとんど必ずと言っていいほど「礼節」と「ユーモア」のさじ加減という問題に突き当たるはずだ。

 

日本には「無礼講」などという“便利な”言葉があるが、あんなものは事実上、何の意味もなさない。

 

ふざけ過ぎれば「礼節」を犠牲にする。かしこまり過ぎれば「面白み」は生まれない。

 

最終的には、どちらを優先するのかというのは個々人のスタンスというか、ある種のコスパ思考になってしまうけれども、個人的な立場としては、基本的には「面白さ」を優先するだろうなと思う。何故なら、その方が面白いからだ。というより、面白くない人間と関わっているほど人生は暇じゃない。つまり、その「面白さ」を追求する過程にやむを得ず礼節を逸した事によって機嫌を損ねるような相手なら、そんな老害はこちらから願い下げである。

 

形だけの「礼節」なんぞゴミ箱に突っ込んでおけ。

 

そういった尖った感性の持ち主と是非とも仲良くなりたいところである。

 

もちろん、礼節をわきまえた上で。

 

 - 思考