賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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「仕事をする」と「仕事になる」は根本的に意味が違う

   

ただ漠然と「仕事をする」と聞いたとき、あなたはどんなイメージを抱くだろうか。おそらく一般的には、出勤して業務をこなすことでその時間に応じて報酬が発生するといった類の感覚だろう。まあ確かにその通りではある。

 

では、一方で「仕事になる」というフレーズに対してはどのようなイメージを抱くだろうか。これは普通に日々を生きていると、あまり聞き慣れないフレーズかもしれない。けれども、経済活動の本質まで少し突っ込んで考えてみると、実は「仕事をする」かどうか以上に「仕事になる」かどうかの方が数倍重要な論点なのである。

 

ものすごく乱暴に言えば、「仕事をする」というのは「労働者側の理屈」であって、一方で「仕事になる」というのは「顧客側の理屈」なのだと言える。まあ「売り手の論理」「買い手の論理」と言い換えても良い。

 

つまり、例えば、スーパーやコンビニのレジ打ちの仕事があったとする。そこで、仮に3時間勤務したとしよう。すると、自動的に時給の3時間分が報酬として受け取れることになる。けれども、ここにひとつの罠がある。極端な話として、もしもその3時間で一人も買い物客が店に来なかったとしたらどうだろうか。本記事の定義で言うなら、当然ながら「仕事をしている」ことには一応なる。けれども、こちらも当然だが「仕事になっている」とは間違っても言えないだろう。

 

ふと冷静に、経済活動の根本に立ち返ってみれば明白なように、「相手に価値を与えること」で初めて「仕事になる」のだと言える。逆に言えば、売り手の側がどんなに頑張っても、買い手の側がそこに価値を見出していなければ「仕事になっていない」という事だ。

 

もうひとつ例を出そう。週刊少年ジャンプの連載作家達は基本的に「毎週1話分(19ページ)の漫画を描いて出版社に納品する」という意味において、同じだけの「仕事をしている」ということになる。ここに異論はないだろう。けれども、単行本の売上や作品の人気に自然と差が出るように、「仕事になっている」かどうかには明確に程度の差があるのだ。例えば、『ONE PIECE』が他の作品の10倍20倍と売れているからと言って、尾田栄一郎が10倍20倍の「仕事をしている」わけでは決してないだろう。

 

これは非常に重要な視点である。究極的には、仕事の価値というものは買い手の側が決めて良いのだという事だ。もっと言えば、買い手の側にしか決められないという事でもある。

 

ここまでを踏まえると、自分自身が「職業人としてどのようなタイプなのか」という問いを考えるにあたって非常にわかりやすい視点が得られる。すなわち、「仕事をする」ことで報酬を得るのは当然だと考えるのか、はたまた「仕事になる」という域にまで至って初めて報酬を得る資格があるのだという事実を真摯に受け入れることができるのか。

 

もし、前者の思考から抜け出すことが知識的にも精神的にも困難であるのなら、あなたは今のところ「単純労働者タイプ」であると定義できてしまうだろう。すなわち、決められた時間だけ働けば対価が得られて当然だという発想であり、自分が生み出せる価値を市場に問うなどという事には考えが及びもしない状態だ。残念なことに、それが現実である。

 

逆に、後者のような思考が少しでも実感を持って理解できているなら、それは起業家的な在り方、もっと言えば、アーティスト的な在り方である。そもそも自分で何らかの事業を創りたいなどという酔狂な夢を抱くような人間は、広い意味ではすべからくアーティスト的である。せっかく縁あってこの『賢哲なる恣意性』の読者でいてくれるあなたには、是非ともこちらの在り方を推奨したいところだ。

 

まあ、個人的な感覚としても、世の経営者たちは、収益が上がってこないリスクを常に自分が引き受ける事と引き換えに従業員の給料を保証しているわけで、その“安定”の上に胡坐をかいていながら文句だけは一人前な従業員というのはいかがなものかという思考がどこかにある。(この思考が行き過ぎるとブラック企業のニオイがしてくるけれども)

 

ともあれ、「仕事をする」ことと「仕事になる」ことは本質的に意味が違うのだという事を少しでも理解してくれたら嬉しく思う。

 

別に、時間労働それ自体を否定しているわけではない。けれども、その中で自分が生み出したものが果たしてきちんと「仕事になっている」のかどうかという視点は常に意識しておくべきであろうと思う。

 

 - 思考