賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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切り口を変えるという事

   

およそ今まで見た事も聞いた事もないと思わせるような斬新なアイデア・商品・サービスといったものでさえ、もはやこの現代においては、真の意味で“オリジナル”なものなどあり得ない。自覚的か無自覚的かに関わらず、世の全てのものは既存の何かしらのパクリである。

 

しかし、そうは言っても、本当にそのまま丸ごとパクってしまうと、受け手の感想は「ああ、パクリだな」で終わってしまう。それでは、まったく市場で評価されないどころか悪評の嵐である。更には、分野によっては著作権や知的財産権の問題にもなる。

 

そうではなくて、ここで言いたいのは、まさにタイトルにもあるように、既存のものをパクった上で「切り口を変える」という事である。言い換えると、「ある分野で有効な方法論を異なる分野に応用する」と言った感じか。あるいは、「他の誰も思いつかない方向から既存のアイデアを形にする」と解釈しても良い。

 

ものすごくドライに現実的な事を言ってしまえば、この現代において誰かが思い付くようなアイデアや思考・価値観などというものは、おおよそ全てと言って良いレベルで過去の誰かが既に思い付いている。これはもはや疑う余地はないだろう。2000年以上も前の時代を生きた錚々たる偉人達が書き残したものが今もなお我々にとって意味のあるものとして読まれ続けているという事実が何よりの証拠である。(それらが消えてしまうだけのものが生まれていないという事なのだから)

 

だからこそ、今この時代を生きる我々には「切り口を変える」という事が切実に求められるだろう。特に、この情報化社会にあってはその傾向は顕著である。何故なら、オリジナリティのないもの(アイデア・価値観・商品・サービスなど全て)は膨大な情報の海にあっという間に飲み込まれて埋もれてしまうからだ。

 

「どこかで見たようなもの」には誰も見向きもしてくれない時代である。そして、より厄介なのは、その「どこかで見たようなもの」を実際に「どこで見たのか」が容易に調べられてしまうという事だ。もはや元ネタ以外は全てパクリ扱いである。(正確には、その「元ネタ」も抽象的な広い意味ではパクリなのだが)

 

だからこそ、我々は「元ネタ」をこそ生み出さなければならない。それは絶対的なオリジナリティである。そして、模倣が不可能(困難)なものである。

 

その「元ネタ」を生み出すための方法論は当然ながら幾つかあって、オレ自身も日々の中で学習と実践と検証を繰り返しているところだけれども、そんな事よりも遥かに重要な考え方というか大前提がひとつある。

 

それは、「そもそも人は誰でもすべからくユニークであって、きちんと自分の人生を生きてさえいれば他者と同じようになるはずがない」という、何とも身も蓋もないものである。

 

言われてみれば当たり前なはずなのに、何故か本当のところでは腑に落ちない。まあ、それも当然だろう。多くの人は物心ついてからというもの、9年間もだらだらと義務教育を受け、そして多くは高校、更には大学と、画一的なおべんきょーを自分の意思とは関係なく続けているのだ。そんな事をしていれば、誰だって劣化コピーになる。(そこに気付いたからこそオレはさっさと離脱したが)

 

そういう画一的な劣化コピー人間を量産してしまいがちな現在の日本の教育システムに対して言いたい事はいろいろあるけれども、それを言っていても現実は変えられない。現実を変えられるのは常に自分自身の行動(と周囲のサポート)だけである。

 

そういう前提に立った時、やはり重要になってくるのは「自分の人生を自分で責任を持ってきちんと生きる」という一点に尽きるのではないだろうか。

 

そうすれば、「他者と異なる=切り口を変える」という発想が自然と生まれてくるはずだ。

 

誰かと同じ事を同じ方向から語っても誰も見向きもしない。そうではなくて、たとえ同じ事だとしても、それを人々が予想もつかない角度から語る。あるいは、既存のものをかつてない組み合わせでもって語る。そういう独自の「味付け」とでも言ったものがこれからの時代は非常に重要になってくるだろう。もはや「食材」だけで勝負できる時代はとっくに終焉を迎えているのだ。

 

この現代、もはや情報という「食材」は全ての料理人に平等に行き渡った。あとは、「何を選ぶのか」、「どう組み合わせるのか」、そして、「どう味を付けるのか」。そういった、人としての核となる部分の違いが明確に表れてくる時代になってきている。

 

異なる分野間の有機的な移動、思いもよらない組み合わせ、そういうものを形にするために「切り口を変える」という視点は必須であろうと思う。

 

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