賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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無知なる幸せからの脱却

   

「何も知らなかったあの頃にはもう戻れない」みたいなセリフは物語などでしばしば見られるけれども、意外と物事の本質を鋭く突いているように思う。「知らぬが仏」なども同様だ。知識というのは不可逆であり、何かを知るという事が必ずしも人生を良くするとは限らない。

 

ある心理学の研究によれば、人が抱く「自信」というのは、「客観的に証明が可能な根拠」よりも「主観的に説明が可能な根拠」によってもたらされる場合が多いという。つまり、「現在の自分が把握できている範囲で他人に対して誇れるもの」が自信になるのである。あくまで「現在の自分が把握できている範囲で」というのがポイントで、まさに昔から我々に馴染みのある言葉で表すなら、「井の中の蛙」といった状態である。大海を知ってしまったが最後、もう二度とその分野でドヤ顔などできなくなるのだ。

 

さて、ここにひとつの重大な岐路がある。すなわち、井の中の蛙として狭い世界でドヤ顔をしていくのか、はたまた大海に出てもがき苦しむのか。比喩を交えてさらっと書いているけれども、実はこの選択というのは人生レベルでの行動指針というか生き方そのものの根幹とも言える非常に重要な分岐点なのである。

 

幼い子供の頃は、何も考えずにただ遊んでいるだけで楽しかった。これはまさに文字通り「何も考えずに」であって、それは「考えるべき論点を知らない」という無知が生み出している状態である。

 

無知とは、言い換えれば、悩みや不安がないという事だ。何故なら、そんな論点が存在していることにすら思考が及ばないのだから。あるいは、他者との比較によって自分の矮小さを思い知らされる事もない。何故なら、まさにその比較するべき他者の存在を認識していないのだから。

 

そういう意味では、無知であることが保たれている限りにおいて、その人は幸せだと言えるだろう。まあ、「幸せ」という言葉のイメージに引っ張られて理解が難しいなら、少なくとも「不幸ではない」と捉えておいても良い。決して、客観的に見てどうこうという話ではない。あくまで、その人の中では「主観的には」幸せであるはずだ。

 

しかし、ここにひとつ問題がある。

 

もし、「無知」であることによって担保された「幸せ」をその本人が受け入れているなら、他人が外からとやかく言う事ではない、ということになってしまわないだろうか。何故なら、本人は幸せなのだから。

 

「いやいや、そんなはずはない」と思うだろうか。「無知などではいけない」「そんなものはかりそめの幸せだ」「人間として最低限の知性は持っているべきだ」と、そう思うだろうか。

 

確かに、ごく自然な感想として、誰しもそう思うだろう。けれども、では「人間として最低限の知性」というものは一体どの程度の水準なのだろうか。一体そんなものは誰が決めるのだろうか。

 

「知性」というものが数値化しにくいのなら、「お金」で考えてみても良い。仮に、1億円を持っている人がいるとしよう。この人は幸せなのだろうか。また仮に、10億円を持っている人がいるとする。この人は幸せなのだろうか。

 

例えば、ある人が100億円を持っていたとする。生活の心配はまったくない。欲しいものは何でも買える。どんな家にでも住める。誰に頭を下げる必要もない。そして、何より本人が幸せだと思っているとする。この場合、常識的に考えて、この人は「幸せ」だと言えるだろう。

 

常識的に考えれば、「人間として最低限の資産」という水準は余裕で満たされているように思える。では、「人間として最低限の資産」とは一体いくらなのだろうか。それは誰が決めるのだろうか。

 

この論点を突き詰めていくと、結局のところ、「本人が幸せならそれで良いのではないか」という、ある種の相対主義的な無関心に近づいていく。そして、実際に本気でそう思っているような層もある程度はいるのかもしれない。

 

けれどもそんな事を言ったら、極論すると「洞窟にこもってケムリでも吸っていれば一生それで幸せなんじゃないか」みたいな話になってきてしまう。それではあまりにもあまりだ。現実から乖離しすぎている。

 

そうではなくて、我々は「今ここにある現実」をより良く生きる事を目指しているからこそ、こんな小難しくて説教くさい記事をあなたもここまで読んでくれているはずである。

 

だからこそ、我々は誰かが決めた基準で自分の成長に満足してはいけない。誰かが決めた基準は「誰かの基準」だ。それは、あなたの基準ではない。本記事では何度も繰り返して「そんな基準は誰が決めるのだろうか」と書いているが、それは他でもない、あなた自身が決めるのだ。

 

それも、ハードルを高く高く保つことだ。勝手に井の中の蛙としてドヤ顔をしていてはいけない。そんなぬるま湯の「幸せ」からはさっさと抜け出して、大海で荒波に揉まれなくてはけない。その道は決して平坦ではないどころか、二度と「無知による幸せ」など手に入らないかもしれない。けれども、居心地の良い世界に引きこもっているだけでは何も生まれない。覚悟を決めて自分の枠の外に出なければいけないのだ。

 

もしかしたら、本記事で得た知見というのは実は知りたくない事だったかもしれない。けれども、最初に書いた通り、知識というのは不可逆である。

 

あなたはもはや、「何も知らなかったあの頃にはもう戻れない」のだ。

 

 - 思考