賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

*

コミュ力を磨こうとするその前に気付くべき真実

   

人間が人間として社会的に存在している以上、「人間関係」に関する悩みというのは尽きることがない。学校、部活、サークル、職場、取引先、公共機関、家族、友人、恋人、夫婦、例を挙げればいくらでもあるけど、人生のあらゆる局面において避けることができないのが人間関係であり、誰もが少しでもそれを良きものにしたいと思うのが人として当然の心情だろう。

 

さて、まず人間関係を語るにあたって、しばしば耳にする「コミュニケーション能力」という言葉がある。この言葉の正体はなかなかに掴みどころがなく、定義も非常に曖昧であり、かつ適切に訓練するための体系も万人に有効な形では存在していない。

 

今回は、この何やらよくわからない存在である「コミュニケーション能力」というものにはあまり頼らずに、少しでも人間関係を円滑にするための考え方をいろいろと述べていくことにしよう。

 

まずもって、コミュニケーションの大前提として確実に理解しておかなければいけないのが、「人は自分の思考をきちんと余すところなく言語化できるわけでは決してない」という絶対的な真実である。言われてみれば当たり前だと思うかもしれない。しかし、この当たり前であるはずの真実に気付いてすらいない、あるいは気付いていても意識できていない人間のなんと多いことか。

 

この絶対的な真実を正しく理解することが、まずは、何はなくともコミュニケーションの第一歩である。むしろ第0歩と言っても過言ではない。というか、もはや前提である。仮に「コミュニケーション能力」などという技能が実際にあって、そのスキルやテクニックを何らかの訓練によって身に付けることができるのだとしても、そんなものよりはるかに重要なのがまずはこの真実の理解なのだ。

 

それでは、「人は自分の思考をきちんと余すところなく言語化できるわけでは決してない」ということを理解したら、次に考えるべきことは何か。当然ながら、目を向けるべきはその言語化されていない部分である。

 

どういうことか。まず第一に、「相手が実際には何が言いたいのか」を見極めることが重要だ。一般的に、人が実際に口に出していることと本質的に伝えたいことの間にはかなりの乖離がある。しかも、多くの場合「本質的に伝えたいこと」を自分自身ですらきちんと認識していない。つまり、我々にはでき得る限り、相手が本当は何を伝えたいのかを正確に認識しようとする姿勢が必要となる。

 

けれども、「正確に認識すべし」といきなり言われても、何やら難しく感じるかもしれない。我々はエスパーでもない限り、相手の心を読み取ることなど一般的にはできないとされているのだから当然だ。しかしながら、それは何も魔法のような特殊スキルでもってなされるものではなくて、もっと単純に、いわゆる「意味の幅」とでもいうものを丁寧に自問しなおすことで可能になる。

 

例えば、

まず、あなたのいる部屋に知人が入ってきたとする。そこで、その彼(彼女)が「暑いね」と言ったとしよう。さて、この「暑いね」はどういう意味だかわかるだろうか。

 

からかっているわけでもバカにしているわけでもない。ましてや日本語運用能力の試験をしているわけでも決してない。ここで、オレの中でパッと考え得る「意味の幅」を列挙してみる。

「室内温度が自分のイメージよりも高かった」
「室内温度が部屋の外に比べて高かった」
「窓を開けてくれないかな」
「冷房をつけてくれないかな」
「とりあえず何か会話でもしようかな」

ざっと挙げてみてもこれくらいの解釈ができる。もっとも、正解がこの中にあると言っているわけではない(例えばの話なのだから当たり前だがw)。そんなことよりもここで重要なのは、「暑いね」という言葉を発した本当の意図が「暑いね」という言葉ですべて表現できているわけではないということである。

 

このように表に出てきた言葉の辞書的な(悪意を含めて言えば“表面的な”)意味のみに引っ張られることなく、その発言に潜在している言外の意味(文章で言えば「行間」とでも呼ばれるもの)をなるべく正しく理解しようと努めること。まずはこの姿勢が不可欠である。

 

巷で言われる「コミュニケーション能力」、略して「コミュ力」の力を借りる前に、もっと当たり前の真実をきちんと理解することで、意外にも人間関係は円滑になる可能性を秘めている。

 

 - 言語論