賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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「責任感」と「責任能力」を履き違えてはいけない

   

「やるべきこと」と「できること」というのは必ずしも一致しない。当然だ。何故なら、それぞれの状況で求められる知識やスキルの領域とそれらに対する個人の能力などによって、ふたつの要素はどちらも目まぐるしく変動するからである。

 

では、それとよく似た構造として、「責任感」と「責任能力」もまたイコールでは決してないという事が理解できるだろうか。

 

こうして言葉で順を追って説明されれば、多くの人が頭では容易に理解できるだろう。そもそも単語が違うのだから同じ意味のはずはないし、それぞれ特に難しい概念でもないはずだ。けれども、いざ実際に、仕事や学校などの組織的な活動という文脈において、このふたつの違いをきちんと認識できている人というのは意外と少ないのではないかと思う。

 

ところで、仕事や学校などで、いわゆる「鬱」などに代表されるような、ある種の精神病になってしまうような人々のメンタリティとは、一体どのようなものなのだろうか。もちろん、鬱になる原因などは、医学的にも心理学的にも社会学的にも様々な方向から説明が可能だろう。

 

けれども、ここでは、ひとつオレなりに新たな知見を提供したい。難しい専門的な説明などは正直どうでも良い。そうではなくて、この現実の社会に潜んでいるちょっとした食い違いをシンプルに言語化するだけである。

 

なぜ、鬱になるのか。それはずばり、端的に言えば、その人自身の「責任感」と「責任能力」との間に乖離があるからである。「理想の自分」と「現実の自分」とのギャップと言い換えても良い。

 

いずれにしても、実行不可能なタスクを無理に背負い込むからである。原理的には至ってシンプルだ。常識的な感覚から言っても、もし「できない事をやらなければいけない」などという状況になったら、そのストレスたるや想像に余りあるだろう。何故なら、形式論理学的な話をわざわざ持ち出すまでもなく、どう見ても明らかに矛盾したタスクだからである。

 

「責任感」というのは、身も蓋もない言い方をしてしまえば「ただの主観」に過ぎないものであって、実際のところ何の判断指標にもならない。「やります!」「できます!」と言葉で言うのは簡単だが、実際にそれが本当に可能であるかどうかとはまったく別の話なのだ。もっと厳しい事を言ってしまえば、実際にはできない事を「できます!」と言ってしまったら、それはもはやただの嘘つきである。

 

一般的な会話の中で、「あの人は責任感が強い」などというセリフがしばしば出てくる。そして、多くの場合その「責任感」には「責任能力」の意味も当たり前のように含まれている。けれども、実際にはそのふたつはイコールではない。

 

イコールではない概念がなぜ同じ意味として使われるのか。それは、通常、人は自分で責任が取れる範囲の事しか引き受けないはずだという、ある種の暗黙の“常識”のようなものが我々の頭の中にあって、そういう意味で「責任感」と「責任能力」との間にギャップがないような文脈においては、このふたつの概念は区別されない。

 

しかし、現実には「責任感」と「責任能力」に乖離があるような状況というのはいくらでも生まれてくるのである。そうなったとき、このふたつの概念をきちんと分けて考えないと、おかしな事になる。

 

多くの場合、こういった不一致というのは真面目な性格で思考の自由度が低いタイプの人に起こりやすい。まさに、主観的な「責任感」だけは強いタイプである。本当に重要なのは「責任能力」の方であって、「責任感」だけ強くても何の意味もない。むしろ正しくタスクが遂行されないという意味においては迷惑ですらある。

 

しばしば言われるように「鬱は甘えだ」などとはオレは別に思わないけれども、もっとそれ以前に、個々人の「責任感」と「責任能力」の違いをきちんと認識する事が、あらゆるタスクを円滑に遂行していく為の組織作りには重要であろうと思う。

 

 - 思考