賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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自虐という「免罪符」に潜む無責任さ

   

「私には特別な能力なんて何もなくて……」というセリフをしばしば使ってしまいがちな人がいる。いわゆる自虐的な発言というやつだ。こういった、対話上適切な謙遜とはかけ離れた、ただ単にセルフイメージが低すぎるだけの卑屈極まりない発言は、そもそも個人的に反吐が出るほど嫌いなのだが(笑)、今回はそういった主観的かつ感情的なオレ個人の好き嫌いの問題ではなくて、もっと深く人間心理に根差した問題としてこのようなセリフを捉えてみたい。

 

「自虐」という便利な日本語が、いつしか意味の広がりの中で、「自虐ネタ」などという奇妙な派生語を生み出して久しい。「自虐ネタ」とは、まさに文字通り、自分で自分を貶めて会話に面白みを出そうという狙いのものだ。オレは個人的に、この「自虐ネタ」という在り方に、日本に古くからあるとされる敬語のひとつ、「謙譲語」の考え方に非常に似たものを感じてしまう。つまり、ひたすらに自分の立ち位置を下げることで相対的に相手への敬意を表すというアレだ。

 

この「自虐」という考え方、当然ながらうまく活用すれば、良質なコミュニケーションに大いに寄与するだろう。言うなれば、関西圏のお笑い的な感性で言うところの「おいしい」という感覚だ。しかしながら、この「うまく活用すれば」という部分が意外とクセ者であり、そのさじ加減が非常に難しい。

 

一般に、自虐的な発言をよくしてしまいがちな人の心理状態とは、一体どのようなものなのだろうか。もちろんその全てを把握することなどできはしない。けれども、オレ的にひとつ注目すべき点を挙げるとすれば、それは「精神的な防波堤の構築」とでも言うべき心理である。

 

つまり、「私の短所(欠点)は私自身がきちんと認識していますよ。だから他の人はもう言及しないでください」という暗黙の圧力を聞き手に与えるというものだ。まあ、広い意味での「ウケ狙い」でない限り、ほとんどの場合がこのような心理状態なのではないだろうか。そうでなければ、わざわざ自分の欠点や失敗談を他人に伝える必要がない。

 

こうした自虐的な発言というのは、一方で、ある意味、精神的な「免罪符」としての役割をも担っていることにお気付きだろうか。

 

つまり、「私には実力がない」というだけなら、まだ純粋な現状認識の範疇にとどまるけれども、「だから失敗しても仕方がない」という暗黙の帰結をその発言には常に内包してしまっていることになる。これは、なんというか、非常に、まったくもって由々しき事態である。というか、それ以前に人として根本的にアカン気がするけど(笑)

 

まあ、発言の形式だけを抜き取ってみれば、なるほど驕りのない謙虚な姿勢だと周囲には映るかもしれない。しかし、現実は違う。過去から未来へという大きな流れの中における、「ひとつの基点でしかない今」という現状に縛られ過ぎてしまっている。そこには、何らかの努力によってその現状を脱しようという意志が感じられない。また、未来においては今のままではなく、もっと質の高い状況が待っているのだという正当な期待感もない。

 

つまり、あえて悪意を含めて厳しい言い方をすれば、「自虐」とはただの甘えに他ならないのである。決して、奥ゆかしさでも謙虚さでもない。努力の放棄。すなわち、自らの人生に対する責任感の欠如である。

 

そもそも、我々人間は、すべからく生まれ落ちた瞬間には何事もなすことなどできなかったはずであって、それぞれの人生を生きていく過程で、あらゆる意味での技能や思考などを体得していくわけだ。つまり、後天的な努力による現状からの脱却というのは決して夢物語などではなくて、唯一にして絶対的な「進化の方法」なのである。

 

当然ながら、何事においても、「できない」から「やらない」のでは、人類に進歩などない。できないことは努力してできるようになるべきであり、それを放棄してしまっては、もはや何のために生きているかわからなくなる。

 

ままならない現実に酔って、悲劇のヒーローを気取っている場合ではない。自らの可能性を自ら掴み取ろうという意志がとても大切なのだ。

 

 - 思考