賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

*

感謝と意外性

   

「ありがとう」という言葉を漢字で書くと、「有り難う」である。つまり、「めったにない」ということだ。言葉の由来を紐解くという事が、現代においてその意味を考える際の強い根拠になるとは必ずしも思わないけれども、ここではひとつ、あえてその点に注目してみようと思う。

 

少し前に、どこかのコラムか何かで、「飲食店やコンビニで店員に対してお礼を言うかどうか」という点についての議論(という程のレベルのものではないが)を読む機会があった。その際、どちらの立場の人もそれぞれに自分の中での理由を簡単に述べていたのだけど、どうにも、「礼儀として言うべきだ」とか「お金を払っているんだからそれで充分」といった感じで、中途半端に頭が古いか中途半端に理屈っぽいかのどちらかでしかなかったという印象を個人的には受けた。

 

この手の話題は、ある種の「べき論」に収束させてしまうと、それに対して賛成か反対かというだけの話になってしまって、本質的に自分自身がどう思っているのかという部分が見えてこないので、あまり意味のある議論にはなっていないように思える。

 

ところで、「感謝」という概念の本質を考えてみるにあたって、ひとつ面白い事例がある。

 

英語の熟語に、「take ~ for granted」=「~を当然の事と思う」というものがあるのだけど、とある文献には、「take nothing for granted」を「全てに感謝する」と訳している箇所があるのだ。これは非常に興味深い。単語をひとつずつ直訳するなら、「何も当然だと思わない」といった意味になるだろうか。つまり、「何事も当たり前ではない」という事だ。それはつまり、「めったにない事ばかりだ」と言い換えても良い。

 

洋の東西を問わず、「感謝」という概念の本質はやはり、「予想外」あるいは「想定外」である。もっと言えば、「期待を大きく上回っている」という事である。決して当然の事ではない。「感謝」と「意外性」は互いに非常に相性の良い概念であるようだ。

 

こうして、何やら小難しい事を考えて概念的にきちんと整理してみた上で改めて自分の言動を振り返ってみると、確かにオレ自身、飲食店などでお礼を言うのは、自分の中に勝手に設定されている最低限の商品やサービスの質というものを遥かに大きく上回ってきた場合が多いなと今更ながら思い至る。確かに、「当たり前」を大きくプラス方向に逸脱してくれた場合が多い。

 

しかも、そういった言動というのは無意識……とまではいかなくても、心の内から自然と出てきた思いを純粋に言葉にしているケースというのが多い。決して良い人ぶるために繕っているわけでもなければ社交辞令でもない。

 

感謝をするかどうかというのは、決して「べき論」なんかに収束させるようなものではない。日々の中でもたらされる「意外性」に対するある種の感動が心の内から自然と発露されたものこそが感謝の本質であろうと思う。

 

 - 言語論