賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

*

アイデアの源泉【前編】

   

「アイデアというのは一体どこから生まれるのか」という、一見すると永遠に確固たる明確な答えなど出ないような途方もない問いに対して、オレなりにひとつの知見というかヒントを与えられるとすれば、それは、端的に「変態であれ」というアドバイスによってなされる。

 

なんじゃそりゃ、といった感じだろうけれども(笑)まあ読み進めてほしい。いわゆる「普通の人」でいてはいけない。明確に他者と異なること。それこそが唯一にして最大の「アイデアの源泉」なのである。

 

と、その前に、ふと戦後の日本における産業の発展の歴史を大雑把に振り返ってみると、終戦当初は、それはそれは物の見事に焼け野原だったわけで、当然ながら必要に迫られる形でいわゆる「モノづくり大国ニッポン」のひな型とでも言うべき感性が形成されたであろうことは容易に想像できる。何もないのだから作り出さねば始まらない。

 

そして、少し時代が進むと、モノづくりの土壌はもう既に整っており、それを全国に行き渡らせることが次の課題となる。つまり、物理的インフラの整備、ひいては流通業の発達である。それが完成すると、次はそのシステムを滞りなく運営するために管理者としての役割が求められるようになった。事業の規模を拡大してもその質を落とすことなく維持することが必要不可欠だからである。

 

さて、既にお気付きだと思うが、この戦後という時代における「モノづくり」→「流通」→「管理」という一連の産業の在り方において、求められている人物像にはある程度の共通点が見られる。それは、「やるべきことが明確にあった時代において、それを忠実に(疑問を持つことなく)忍耐強くやり遂げられる人材」だ。

 

ここでは、前半の「やるべきことが明確にあった」という部分がミソになる。戦後以来の「みんなで協力してひとつのことをやり遂げよう」というパラダイムは今もなお根強い。この「みんなで協力して」であるとか「忠実に(疑問を持つことなく)」といったような価値観はあくまで、「やるべきことが明確にあった時代」の話なのである。

 

ここで、話を現在に戻して、「アイデアはどのように生まれるか」について考えてみる。そもそも、なぜアイデアを生み出す必要があるのか。それは、「モノづくり大国ニッポン」として戦後瞬く間に経済的な急成長を遂げた、というより、遂げてしまったが故に、この国に強く根付いてしまった、産業ひいては雇用に対するパラダイムがもはや今の時代においては通用しないものとなりつつあるからだ。

 

つまり、やるべきことが明確に決まっていて、画一的な労働力としての人的リソースにレバレッジをかけて事業規模を拡大していた時代においては、放っておいても仕事があって、モノを作れば作っただけ買ってくれる時代であった。しかし、もはやそれも限界が近い。今やもう、「産業空洞化」であるとか「就職氷河期」などという(まったく笑えないが)冗談のような比喩で端的に表現されているように、明らかに「放っておいたら仕事がない時代」になっていることは想像に難くない。

 

では、救いは一体どこにあるのか?

 

この、「放っておいたら仕事がない時代」において生き残る唯一の道、それは、日本人ひとりひとりがあらゆる意味において「とてもじゃないが放ってはおけない人」になることである。つまり、他者とは明らかに違う何かを持っている人材だ。かつて必要だったのは画一的な労働力としての人材であり、それは、会社に行けば当たり前のように仕事があった時代に求められていた人物像だ。それに対して、今の時代は画一的な人間であることはもはやそれだけで死を意味すると言っても過言ではない。

 

他者との差異を際立たせること。それこそが自己の価値を高める行為なのだと理解することが非常に重要である。

 

では具体的に、どのように差異を際立たせて価値を高めていけばいいのかという部分について述べていこう。

 

正直なところ、一言で言ってしまえば、「差異=価値」なのだという絶対的な公式(と呼べるほど大したものでもないけどw)を理解できるかどうか、まずはここがスタートになる。そして、「差異=価値」であるのなら必然的に、「差異の増大=価値の増大」であるという当たり前の真実が感覚的にでも理解できると話は早い。

 

ここで、少し話は変わるけれど、そもそも、読者の皆様は「交換」という概念について深く考えたことがあるだろうか。つまり、「なぜ交換が起こるのか」という問い、もっと言えば、「いかなる条件下において交換が成り立つのか」という問いに置き換えてもらっても構わない。その答えがまさに「価値」というものの本質に迫る非常に重要な問いなのである。

 

「貨幣」という偉大なる概念が人類の歴史に登場するよりもっと前、人々はいわゆる物々交換を行っていた。つまり、Aさんは山へ猪を狩りに、Bさんは海へ鮭を獲りに、そしてAさんBさんは互いに猪と鮭を直接取り替えるといった感じである。

 

ここで注目すべきは、この交換が行われる時点において、Aさんにとっては「猪よりも鮭の方が」、Bさんにとっては「鮭よりも猪の方が」価値が高いと判断されているという点である(そうでなければどちらも交換するという意思決定はしない)。

 

これが「価値」というものを語る際にまず頭に入れておかねばならない重要な原理原則のひとつで、「価値というのは、ひとりひとりの脳内にのみ主観的に存在しており、客観的な価値など実は存在していない」ということである。「猪と鮭の価値はどちらか上か」などという問いに客観的に答えを出すことは実は不可能なのだ。

 

さて、ここで、読者の皆様は「いやいや、1万円と1億円の価値ではどちらが上かは猿でもわかるだろう!」と心の中で盛大にツッコミ祭りを開催したことだろう。

 

まさにその通りだ。その素朴過ぎる“ツッコミ” こそが、まさに価値の指標としての「貨幣」というものの大きな存在意義のひとつなのである。つまり、上でも述べたように、本来、主観的にのみ存在している「価値」というものをでき得る限り客観的に計測(表現)するという機能が通貨にはある。「客観的に」というからには(少なくともある程度の規模を持った)ある共同体の中で広く認められた共通の指標が必要である。それがこの日本においては「円」というわけだ。

 

本来、「うまい棒×6本」と「ガリガリ君」の価値はどちらが上か、などという問いは不毛であり、「人それぞれの好み」だとしか言えないのだが、そこに、「円」という指標を媒介することによって、「どうやらだいたい同じくらいらしい」と認識することができるようになるのである。

 

さて、「貨幣」の話は今回の本題ではないので少し置いておくとして、ここで理解すべきは何をおいても「価値」というものの本質である。繰り返しになるが、「価値」とは人それぞれの脳内にのみ主観的に存在している。「価値観」という言葉からもわかるように、「何を価値として観るか」は本当に人それぞれだ。

 

と、幾分長くなったので少しまとめると、まず、これからの時代に求められる人物像とは、「とてもじゃないが放ってはおけない人」である。次に、「価値=差異」であり、また「価値」とは主観的にのみ存在しているという理解をすること。そして、「価値」が主観的にのみ存在しているからこそ、人それぞれの「価値観」の多様性が「交換」を生むのだと。つまり、他者と異なれば異なるほど交換可能な自己の価値は増すというわけだ。

 

以上を前提として、ようやくここからが、「いかに他者との差異を際立たせ、自己の価値を高めるか」という部分なのだが、そちらはまた別の記事にて。

 

アイデアの源泉【後編】

 

 - 思考