賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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「英語ができる」という罠

   

「英語ができる」ことは一般的にとても良い事であるとされているし、何故か世間からの評価も非常に高い。けれども、日常的に何となく意味を深く考えないまま使ってしまいがちなこの「英語ができる」という言葉、まさに純粋な語義通りに解釈するなら、個人的にはあまりそれが意味のあるスキルだとは思っていない。

 

さて、まず前提として、「英語ができる」とは一体どのような状態なのだろうか。ネイティブのごとくすらすらと会話ができる事だろうか。文法にも語彙にも困らない事だろうか。あるいは、TOEICや英検などの実績だろうか。まあいずれにしても、我々が一般的に思い描く「英語ができる」という状態を想定してもらって構わない。

 

しかしこの「英語ができる」という事に、果たして本当に価値はあるのだろうか。

 

ひとつ、感情論を差し挟まずに公平に考えてみよう。英語圏に生まれたネイティブは当然ながら「英語ができる」はずだ。それは間違いない。では、そのこと自体が社会的に価値を生んでいるだろうか。

 

当然ながら生んではいない。そもそも「価値」という概念の前提から考えて、原理的にあり得ないのだけど、当然ながら「誰でもできる事」に価値はない。

 

では、例えば我々のような日本人が外国語として英語ができるとしたら、それは価値のある事なのだろうか。確かに、当然ながら日本人の多くは英語ができないのだから、できる人には希少価値があるだろう。そういう意味での価値はあると言えなくもない。けれども、ただそれだけの話だ。

 

英語に限らず全ての言語はコミュニケーションの道具である。もっと言えば、道具でしかない。そして、道具である以上、その真価が発揮されるかどうかは当然ながら使用者と用途に依存する。包丁それ自体がどんなに立派であろうと、料理の知識と切るべき食材がなければ何の役にも立たないのだ。

 

そういう意味において、オレは昔から「英語ができる」という事の価値に対してかなり懐疑的である。

 

世の中で一般的に「英語ができる」と言われている人、もしくはそう自称している人をある程度まで注意深く観察していると気付く事がある。それは、ただ単に「英語ができるだけ」だという事だ。何やら禅問答のようになってきたけれども(笑)

 

つまり、料理の知識も切るべき食材も持っていないのに包丁だけはやたらと立派な状態である。確かに、英語はできる。けれども、英語しかできない。そのような傾向が目立つ。

 

非常に根本的かつ身も蓋もない事を言ってしまえば、「英語ができる」というのは実はそれだけで単独に存在できる概念ではない。むしろ、より重要なのは「英語を使って何ができるのか」という問いであって、常にそれと表裏一体のものなのである。

 

そもそも論として、日本語でできないことを英語でできるはずはない。日本語ですら理解できない概念を英語で理解できるはずはない。何語で喋ろうとバカはバカである。しかも多くの場合、非ネイティブ言語でのコミュニケーションにおいては理解の精度はさらに何倍も下がってしまう。

 

同様の理由で、オレは留学などにもかなり否定的である。何故わざわざ無駄に理解のハードルを自ら上げた環境で勉強しようとするのか。まったくもって意味がわからない。まあ体験という意味での価値はそれなりに高いだろうが、学習という意味ではほとんど無意味だろう。

 

オレは別に「英語ができる」こと自体を良いとも悪いとも言うつもりはない。英語学習の過程がそもそも趣味として楽しいと感じている人も場合によってはいるだろう。けれども、通訳かあるいは翻訳者にでもなりたいのでなければ、「英語ができる」ことそれ自体には何の意味もないという事は理解しておくべきだ。

 

真に重要なのは「英語ができる」ことではない。英語を使って何ができるのか。この問いに即答できないようなら、もし英語を勉強したとしても、費やした時間の半分以上は徒労に終わるだろう。

 

決して、英語に逃げてはいけない。あなたには、まだまだ日本でやるべき事が残っている。

 

 - 言語論