賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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「鬱は甘え」という言葉の解釈

   

「鬱は甘えだ」という言説をしばしば耳にする。そして、そういった主張は多くの場合、「鬱とは精神的なものであって、心の持ちよう次第でどうにでもなるはずだ」という極めて体育会系的なというか根性論的な前提に基づいているように思える。

 

まあ確かに、一理はあるような気もする。というか、少なくとも心理学や精神医科学などの専門家ではないオレからすれば、その主張に対して真っ向から論拠を示して否定する事はできない。現実的な実感としても、人並み以上にメンタル的に強かったり根性があったりするような人なら鬱にはならないような感じもする。そういう意味では、「鬱は甘え」だと言えない事もないのかもしれない。

 

さて、仮にこの「鬱は甘え」だという主張を認めたとしよう。すると、ひとつの疑問が生じてくる。すなわち、「では、どこまでやれば甘えではないのか?」と。

 

考えてみれば、不思議な話である。一般論として、鬱になってしまうという事は、その本人の中では極めて限界近くまで追い詰められているという事だ。つまり、どう考えても甘えている人間が至るような結果ではない。対して、悠々と日々の生活を送っている人間の方がむしろ「自分に対して精神的な負荷をかけていない」という意味では甘えているのではないだろうか。

 

「鬱は甘え」であると認めるなら、もはや極端な話、全ては甘えであると言えてしまう。「お前が金持ちじゃないのも甘え」「お前がイケメンじゃないのも甘え」「お前がモテないのも甘え」「お前の同僚が鬱になるのも甘え」「お前が生きている事も甘え」。まあ幾分どころかほとんどが誇張というか皮肉なのだけど、理屈の上ではそういう事になる。

 

こんな屁理屈がなぜ言えてしまうのかと言えば、それは物理的かつ精神的な処理能力(責任能力)における個体差というものをまったく無視しているからである。この個体差はある程度の期間をかけて適切に訓練しなければ埋められない。決して、精神論や根性論で何とかなるようなレベルのものではないのだ。

 

オレは別に、鬱は甘えではないのだからもっと優しくするべきだと言いたいわけではない。そんな事はどうでも良くて、問題は「根性論じゃないものを根性で解決できるわけがない」という極めて真っ当な理屈である。

 

だからこそ、「鬱は甘え」だという認識は多くの場合において、適切な解決策を導く事ができないだろうなと個人的には思う。

 

 - 思考