賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

*

心にウソをついていると自分が内側から徐々に死んでいく

   

時間がない、お金がない、環境がない。そういうのは全てウソであって、本当にないのはやる気である。モチベーションと言い換えても良い。それ以外は全て建前。悪く言えば言い訳である。

 

ここで誤解して欲しくないのは、だからダメだというわけでは別にないし、「やる気を出せ」と言いたいわけでもない。当たり前だが。というか、そんな事を読者に対して言えるオレは何様なのかという話になってしまう。

 

そういうことではなくて、結局のところ本当にやりたい事というのは、時間がなくても、お金がなくても、環境がなくても、それどころか仮に他人にやめろと言われたとしても、そんなことは関係なく勝手に自然とやってしまうものなのだと思う。

 

だからこそ、別に「オレはこれをやるぞ!」と鼻息荒くわざわざ他人に宣言する必要はないのだけど、自分の行動という意味で、本音で生きるというのは本当に重要だなと改めて感じる。

 

確かに、建前と本音をうまく使い分けることは円滑な人間関係の構築という観点からは非常に重要なスキルだ。けれども、他者とは関係のない自分自身の行動指針まで建前ばっかりに依存していると、無意識にだんだんと本音の方が死んでいくので気を付けた方が良い。

 

思えば、日本の小学校、中学校、高校、あるいは場合によっては大学に至るまで、本当に自分が好きな事を本音で選んでするという体験なんて実はほとんどなかったのではないだろうか。無意識に、親が、教師が、ひいては国の政策が敷いたレールの上を走らされていたのではないか。

 

例えば、ちょっと冷静に考えてみれば、義務教育でもないのに当たり前のように高校に皆が行こうとするのは異常である。多くの中学生が国語算数理科社会を好きで勉強したいと思っているわけがない。

 

他に選択肢がないと言えばそれまでだろう。しかし、ではその“選択肢”とやらは誰がいつになったら用意してくれるのだろうか。いつかの時点で、自分で決断して選ばない事には、いつまで経っても親の、教師の、ひいては国の思うつぼである。

 

量産されたロボットが求められた時代は、とうに終焉を迎えた。

 

これからの時代、いかに不確定要素を意図的に生み出して、更にそれを上手く乗りこなしていくのかというところが重要になってくる。そんな時代にあって、自分の内なる心が死んでしまっていては話にならない。

 

建前というのは表面的な摩擦を避けるという意味で、非常に楽な道である。しかし、それこそが罠だ。そんな事を一生続けていくなど死んでいるのと変わらない。

 

きちんと自分の選んだ生き方をできるように、まずは心を叩き起こさなくてはいけないだろう。

 

 - 人生設計