賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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自己成長と黒歴史の意外な関係

   

どんな人生を送るにしても、自分の能力や思考を成長させることはとても重要だ。そして、成長するということは、裏を返せば、過去の自分を相対的に劣った存在へと追いやる行為でもある。

 

一般的に、「黒歴史」という言葉は過去の痛々しいヤラカシや若気の至りなどを指す場合が多い。けれども、実は、どこに出しても恥ずかしくないような立派なエピソードや研究成果でさえ、いずれは必ず黒歴史になるのである。

 

ちょっと意味がわからないというか、イマイチ実感しにくいかもしれないが、これは本当に、ある種の真理であると同時に、我々のような広い意味でのコンテンツ提供者にとっては極めて切実な救いである。

 

しばしば、情報発信者の間では、どのくらいまで完成度を高めてから世の中に出すべきなのだろうかという議論(疑問)がある。まあ、究極的には「好きにしろよ」としか言いようがないのだけど、それでも、ある程度の基準というか目安が欲しいという感覚も普通に理解はできる。

 

しかし、結局のところ、その議論(疑問)に対して客観的に判断できるような意味のある答えなど出せるはずがない。

 

実際、どんな分野でも良いのだけど、「自信を持って世の中に対して発表できるレベル」というのは果たしてどのくらいの水準なのだろうかと考えてみると、結局、考えれば考えるほど、上には上がいるという当たり前すぎて身も蓋もない結論に落ち着かざるを得ない。

 

どんなに勉強したって専門の学者や研究者には遠く及ばない。どんなに熟練した職人的な技術にしても、世界で一番でない限りはもっと上が必ずいる。

 

結局のところ、自分が“世に出したい何か”の価値を相対的な優劣のつくものだと認識している限り、世界で一番でないと意味がない事になってしまう。もちろん、ここまで冷静にロジカルな推論をしたわけではなくても、どこかで感覚的にそう思ってしまっているのではないだろうか。無意識だからこそ、自分の中では原因不明の不安があるのだろう。

 

そういう局面において思考を大きく転換させてくれるのが、まさに「黒歴史」という概念である。

 

つまり、自分の中ではどんなに頑張ったとしても、世の中的に見れば当然ながら上には上が無限にいることになる。また同様に、ある時点でどんなに頑張ったとしても、それより先の未来から見れば当然ながらその成果物は相対的に拙いものであることになる。

 

言い換えれば、未来の自分も含めた上位の存在から見れば、全ては黒歴史である。

 

だからこそ、「こんなことを偉そうに言って恥ずかしいんじゃないだろうか」などと思い悩む必要はない。何故なら、どんなに立派な事を言おうとやろうと、どうせ「恥ずかしい」のだから(笑)

 

であれば、逆説的に、今このとき、思ったことは全て世に出してしまえば良い。これは別に思考を放棄して逃げているわけではない。どう足掻いても原理的に逃げられない構造の中で思い悩むことの方が無駄だという事である。

 

むしろ、後から振り返って黒歴史が多ければ多いほど、現在の自分は自己成長しているという事になる。黒歴史はむしろ成長の証である。恥であるどころか喜んでも良いくらいだ。

 

人生においてひとつの黒歴史も残していないような人は、逆説的に、何もやっていないのと同じである。勇気を持って、黒歴史を量産してゆこう。

 

 - 人生設計