賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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究極の目標などいらない

   

「あなたの人生における究極の目標は何ですか?」という問いをしばしば耳にする。様々な分野の成功者や、あるいは新進気鋭の若手に対するインタビューなどで終盤のネタ切れ感をどうにか埋めようとして大衆向けにカスタマイズされた問いである(笑)

 

個人的には、この問いは、まったくもって何の意味もないと思う。それどころか、訊く側にも答える側にもあまり有益な情報や知見が得られるとは思えない。

 

また、この問いには、当たり前のように「人生における究極の目標」を誰しもが持っているのだという前提がある。

 

しかし、本当にそうなのだろうか。当然ながら、誰だってせっかく質問されればそれなりに理屈の通った答えを返すに決まっている。けれども、本当にそのために自分の人生の全てを懸けていると言えるのだろうか。どうもオレにはそうは思えない。

 

例えば、多くのサッカー選手にとって、究極の目標はW杯で優勝する事だと言えるかもしれない。確かに、質問に対する答えとして一番もっともらしく聞こえるし、第三者の立場からしても共感しやすいだろう。もちろんウソをついているわけもない。

 

しかしながら、現実としては、W杯で優勝したからといって自分のサッカー人生に満足して現役を引退するなどという選手はひとりもいないのである。結局のところ、優勝しようがしまいが、それとは何も関係なくほとんどの選手が現役生活を続ける。(たまたま年齢的に適切なタイミングと一致して引退する選手はもちろんいるだろうが)

 

ここで、目標は達成するたびに次なる目標へと更新されていくのだという使い古された主張も当然ながらあるだろう。けれども、結局のところ本質は同じで、じゃあ優勝の次は連覇を目標にして、あるいはEUROや南米選手権での優勝を目標にしてやっていったところで、どちらにしても達成したからといって引退したりはしないのである。

 

つまり、どういうことなのか――。

 

言ってしまえば、究極の目標などというのは、まずその概念からして意味をなさないのである。

 

究極的には、人は目標を達成するために何かをやっているわけではない。表面的には何らかの結果を求めているのだと思いがちだが(そしてそれは成果主義的な教育のひとつの弊害だが)実際にはもっと素朴で、本来はただ純粋に好きな事をやっているだけのはずである。

 

それは、職業的に、というより業務的に外部から求められるノルマとしての目標の話ではない。そんな貧乏くさい次元ではなく、マズロー的に言うなら自我とか自己実現とかのレベルの話である。

 

ただ素朴に、純粋に、好きな事をやり続ければ良い。それでは食っていけないという極めて真っ当な主張もあるだろうが、身も蓋もない事を言ってしまえば、それは究極的には「好き」の度合いが足りないのではないだろうか。

 

達成しても達成しても際限がない「目標」という謎の概念に支配され続ける人生と、好きな事を好きなだけやり続ける人生。どちらが良いかは考えるまでもないし、結局のところ、人は後者でしか生きられないのではないかと思う。

 

なぜ山に登るのか。そこに山があるからだ。

 

案外、人生において“やりたいこと”なんて、そんなものなのかもしれない。

 

 - 思考