賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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コミュニケーションにおける謙虚な姿勢

   

他人に対して、ありのままの姿を認めて接するというのはとても難しい。どうしても能力や実績、場合によっては肩書なども含めた様々な要素がその認識に多大なバイアスをかけてくる。

 

認識というのは個人の主体的な行為であるが故に、極めて主観的な行為であるとも言える。実際のところ、その認識が“正しい”のかどうかはどうやったって判断する術がないからである。

 

しかしながら、そもそも主観から完全に離れた客観などというものがあるのかという哲学的に極めておいしい問いを考え始めてしまうとキリがないので、この際そこは考えないようにしよう。

 

いずれにしても、コミュニケーションが失敗する原因の多くは“理想の相手像”を勝手に自分の中で形作ってしまっているからである。当然ながらコミュニケーションを図りたい相手は実際には“現実の相手”なわけで、自分が勝手に形作った“理想の相手像”とは異なる場合がある。というか、むしろ異なる事の方が多いくらいである。

 

そういう小さな食い違いがお互いのイライラを積み重ねていく。そして、それが行き着くところまで行ってしまうと、最後はお決まりのこのセリフである。

 

「そんな人だと思わなかった!」

 

いやいや、最初からその人はそんな人なのだ。そもそもバイアスに満ちたあなたの脳内で勝手に創り上げた“理想の相手像”は文字通りあなたの脳内にしかいない存在なのである。

 

人は無意識のうちに他者に“期待”をする。まさに自分が思い描いた想像上の相手と現実の相手が一致していることを当然のように期待する。そういう無意識の傲慢さを持っている。

 

だからこそ、相手のちょっとした一言が許せなかったりもする。もちろん明確に悪意を持って罵倒されたりしたら誰しも気分を害して当然だろう。それは極端な例であり、むしろケンカの売り買いという意味では正しくコミュニケーションが成立しているとも言える。けれども、そんな気がまったくない相手の一言に対して「なんでそんな言い方をするのか」と憤るのはいささか傲慢ではないだろうか。

 

相手には相手のバックボーンがある。それがあなたのバックボーンと同じなわけはない。言語というのは変化に対して極めて柔軟なものであって、同じ単語であっても厳密には個人個人すべてが微妙に違う意味で使っているとも言える。それまでの人生が少しずつそういった微妙な違いとして言語使用に反映されてくるのだ。

 

本来、コミュニケーションとはその微妙な解釈のズレを修正していく過程である。そうであれば、まずそもそもズレがあるという事を理解していなければ話は始まらない。

 

「よけいな要素は取っ払って相手をありのままに認識する」というのは言葉にすれば簡単に聞こえるけれども、実際にはこうして書いているオレ自身にもどうやったら良いのかイマイチわからないくらいには難しい営みである。

 

「同じ言葉を異なる意味で使っている」というのは概念的に理解しにくい人が多いかもしれないけれども、まずは、人ってそういうものだという理解から始めるのが良いと思う。

 

人は生きている以上、コミュニケーションからは逃れられない。それなら、少しでも円滑にできた方がお互いに幸せだろうと思うのである。

 

 - 思考