賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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「~すべき」と「~すべきではない」は結局どちらも大差ない

   

世の中に数ある面倒くさい物事のひとつに、“べき論”というものがある。それを言っている本人は、もちろん善意でアドバイスしているのだろうし、あるいは強く信じる何かに突き動かされてある種の正義感から本心で言っているのだろう。

 

しかし、多くの場合、それらは言われた方からすれば大きなお世話でしかない。価値観の押しつけも甚だしい。他人の可能性を勝手にどんどん毀損していく割には何の責任も取れないという極めて浅慮な行為である。求められていない正論などもこの類に入るだろう。

 

まあ、“べき論”が鬱陶しいのは世の中の多くの人が感じているところだと思うので特に深く言及する必要はないだろう。

 

オレが最近になって至った考えは、“べきではない論”もまた“べき論”と同じかそれ以上に鬱陶しいものだという事だ。

 

例えば、わかりやすいのが、「高校生は制服を着るべきだ」という主張を“べき論”だとするなら、「高校生にもなって制服なんかで管理されるべきではない」という主張は“べきではない論”だと言えるだろう。

 

このうち、後者の主張は、既存の体制のようなものに対するある種のアンチテーゼとして一見するとカッコ良い主張のように思えるし、こういった主張をする人間はなぜか常識にとらわれない柔軟な発想力を持っているのだというような謎の高評価をしばしば受ける。

 

けれども、本当にそうなのだろうか。“べきではない論”側の人間は本当に柔軟で自由度の高い発想力を持っているのだろうか。まあ、当然ながらそうは思えないからこんな記事を書いているのだが(笑)

 

そもそも論として、アンチテーゼというのは、その構造から考えて、常にテーゼに依存して発生することになる。言い換えれば、“べき論”なしに“べきではない論”は生じ得ないのだ。

 

であれば、結局のところ、“べきではない論”というのは、“べき論”に対して不平不満を言うことが目的になってしまっているケースが多いのではないか。既存の体制に対して何かしら物申したいというその思いはまあ立派だが、実際にはそれが本音なのではなく、テーゼに対してアンチテーゼが自動化されてしまっているだけの話ではないか。

 

また、そういった第一発信者ならまだ救いはあるが、それを聞いてまんまと煽られて我も我もと賛同してしまうような人々は極めて残念である。いや、残念で済めば良いが、多くの場合、そのアンチテーゼの方に無意識に洗脳されてしまう。

 

正直、親や教師に代表されるようないわゆる“大人”の言う事が聞きたくなくてカッコ良くアンチテーゼを主張しているつもりでも、それは結局のところそのアンチテーゼの発信者の言う事を盲目的に聞いているだけで、本質的には何も変わらない。自分の頭を適切に使えていないという点でほとんど大差ない。それどころか、“常識はずれ”の烙印までオマケつきである。

 

本当に重要なのは、「~すべき」でも「~すべきではない」でもない。どちらでも好きな方を自己責任で選べば良い。

 

特に、広い意味での教育者を名乗るような立場にいる人間は、本当に気をつけてほしい。一見すると教育熱心な人ほど、多数派に迎合する事を嫌って“べきではない論”を振りかざしてしまいがちだが、それは結局のところ“べき論”と表裏一体であり、価値観の押しつけである。押し付ける価値観が他者と異なるだけで、“べき論”と同様に相手の可能性を毀損している。

 

「どちらでも好きに選べば良い」という可能性と思考訓練に満ちた道を勝手に閉ざしてはならない。たとえ独自のアイデアだとしても、自分自身で思いつかなければ何の意味もないのだ。

 

 - 教育