賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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毒舌人間関係論

   

「気遣い」というのは真心でもって自主的にするものであって、他者に強制されてするのは「気遣い」でも何でもない。人を無償の雑用係として扱うなど、人種差別レベルの悪行である。むしろ、わざわざ「気遣い」などしなくても心地よい相手とだけ普段から仲良くしたら良い。それが対等な仲間というあり方ではないだろうか。お互いに相手を選ぶ権利は平等に公平にある訳だから。

 

「家族」などのような関係であれば、そもそも生まれた家という制約があるので話はそう簡単ではないが、「仲間」というのは後天的にいくらでも成立・解消が容易なわけだから、「仲間」という関係性ありきでは決してなくて「そもそも仲良くしたい相手なのか」というシンプルな問いによってのみ意思決定できるはずだし、またそうあるべきだろう。

 

もし、その「仲良くなりたい」という熱量に格差というか非対称性があるのなら、「気遣い」によってそれを埋めるという選択肢がひとつあるだろう。まあ、オレは基本的にそんな事はしないが。

 

世の中には、「友達がいないと寂しくて死んじゃう!」みたいな幼稚な精神性を持った層も一定数はいるのだろうが、オレは基本的に「おもしろいヤツがいるならつるむけど、別にひとりでも楽しい」というスタンスなので、そういう関係構築そのものに必死になったりはしない。

 

ましてや、例えば年齢のように自分の努力で変えられない要因によって、まるで雑用係かのように扱われる可能性が高いような集団なんて、誰が好き好んで行くのかという話になってしまう。

 

こういう話をすると、とんでもなく横暴というか傍若無人みたいな印象を受ける人もいるかもしれないけれども、オレは別に集団の中でその都度でてくる雑務を「一切やりたくない!」みたいなワガママ野郎では全然ない。むしろ、その瞬間瞬間のタイミングや位置関係も含めた広い意味での適材適所に任せるべきだと考えている。決して、悪意でサボっているわけではない。やってもらった場合にはきちんと感謝もしている。そこは当たり前だ。

 

むしろ、下っ端にやらせるのは当然という顔でろくに感謝もしないような態度がもし成り立つとするなら、そちらの方がよほど不健全な集団なのではなかろうか。

 

このご時世、若者はどんどん“大人”の言う事を聞かなくなっている。若者たちからめでたく老害認定を受けないように、是非とも“大人”共には気をつけて頂きたいところである。

 

 - 思考