賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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ダーウィンの『種の起源』ひいては進化論は神の否定の根拠としては弱すぎる

   

ダーウィンの著書『種の起源』において、ガラパゴス諸島の生態系を観察する事で得られた知見に基づいた一連の主張を「進化論」と呼ぶのは全くもって適切ではないと個人的には思うのだがどうだろうか。より専門的に細かく言えば、「進化論」のなかでも「自然選択説」という分類になってはいるにせよである。

 

ダーウィンの「進化論」の主な論調は多くの人が勘違いしているが、簡単に言うと、「“たまたま”少し変わった個体が生まれてきて“たまたま”環境に適応して生き残ったのだ」というものだ。言ってしまえば突然変異のようなものである。決して環境を後追いする形で徐々に変化していったという主張ではない。

 

しかし、そうであれば、それは文字通り偶然の産物であって、因果関係の特定もしにくい上に再現性もない。そもそも、一定の条件に反応してより良きものに変化するという「進化」という単語の語義とは本質的に異なる。

 

何より、ダーウィンは基本的に神(つまり全ての人間や動物を創りだした存在)はいないという宗教的立場のはずだが、「進化論」で言うような主張では「神が動物をそのように創ったからだ」という言説に対する反論としては根拠があまりにも弱すぎてもはや反論になっていない。偶然である以上は確率論であって、それぞれの動物の個別の努力はあまり関係がない。結局のところ運頼みである。

 

運頼みという事はつまり、「最終的には神の思し召しである」という主張(もちろん論理飛躍だが)を最終的には棄却できない。

 

つまり、ダーウィンの『種の起源』および「進化論」を根拠にして「神などいない」と主張するのは無理があるという事だ。そもそも、あんなものは別に「進化論」ではなくて、偶然の産物に対する後付けの「結果論」でしかないのだから当然と言えば当然だが。

 

一応付け加えておくと、オレは別に宗教的に神を信仰しているわけではないが、概念としての神を設定する事には特に反対ではない。まあ、このあたりは誤解を招かないように言葉を選ぶのが非常に難しいのだけど、冷静に考えると別に誤解されたところで知った事ではないのでどうでも良いといえば良いのだが。

 

また、オレ自身は別にダーウィンに対するアンチでもまったくない。もちろん学術的に価値のある功績だし、広い意味での歴史学という観点からも評価されて然るべきだろう。

 

オレがあまり快く思わないのは、「進化論」を根拠に神を否定しようとする態度の方である。最終的な結論として神がいようがいまいがオレ自身は別にどちらでも良いのだけど、単純に論理的な穴に気付かずに色々と騒ぐのは何というか知的に残念な人々なのではないかとどうしても思ってしまう。

 

やはり、自分はそういう落とし穴になるべくならハマりたくないなと思うのである。

 

 - 思考