賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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科学の限界

   

こんな大層なタイトルをつけてしまって一体どうするつもりなのかと自分でも思うのだけど、何というか、最近ちょっと科学というものに関して改めて思った事をつらつらと書いていく。

 

このご時世、科学万能主義みたいな主張をしている人はもはやそうそういないだろうが、それでも何となく「科学的な根拠がある」と言われてしまうと、なぜか無条件にある程度の信頼を置いてしまうというのは誰しも身に覚えのある事ではないだろうか。

 

オレ自身にも過去に身に覚えがあるけれども、よく、自分が納得できない主張に対して、「科学的に根拠があるのか」とついつい訊いてしまったり、「そんな非合理な」と無意識に言ってしまったりする事がある。しかし、それは裏を返せば科学的に正当な根拠を示されればそれで納得してしまうのかという事にもなってしまう。個人的には、それはそれであまり知的に誠実な態度とは言えないような気がしてならない。

 

オレは別に科学的な事を何でもかんでも否定したいオカルト野郎というわけでは全くないのだけど、この世の中の全ては言語と数式で記述できるという、まさに科学が前提としているその発想はあまり好きではない。

 

オレが科学的なアプローチを完全には信頼できない大きな理由のひとつに、「どう頑張っても個体差をカバーしきれない」という点がある。

 

統計学などがもっともわかりやすいと思うのだけど、例えば、全人口のうち70%の割合で当てはまる事象(命題)があったとすると、当然ながらサンプルを数多く取ってくれば当てはまる割合は限りなく70%に近づくだろう。

 

しかし、それがいざ自分自身に当てはまるのかどうかというのは、結局のところ自分自身で検証して確認してみなければわからない。これは80%でも90%でも、あるいは99.99%でも同じ事である。

 

確率が0%あるいは100%でない限り、いざ自分に当てはまるのかどうかは神ならぬ身には前もって知りようもない。最終的には“人体実験”がどうしても必要になってくるのである。

 

思うに、科学に対する無邪気な信頼は、そういった“人体実験”を通して仮説の検証を必ずしなければならないのだという知的な態度をあまり育ててくれないのではないか。それどころか、科学という“答え”を調べれば正解に辿り着けるのだという安直な発想を容易に植え付けてしまう。

 

やはり、それではいけない。

 

本来、科学などというものは使えるところだけおいしく頂いて、上から目線で存分に利用してやれば良い。判断基準はあくまで自分の中にしっかりと持っているべきであって、決して科学的な研究成果を妄信してはいけない。科学に限った話ではないが、世の中にある何らかの“答え”のように思えるものはあくまでもその時点での暫定解であるという事を忘れてはならない。

 

科学というのは、その手法にも研究成果にも当然ながら限界がある。そこを理解した上でうまく折り合いをつけて付き合っていくのが良いだろうなと思う。

 

 - 思考