賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

*

「論理」と「倫理」を考える

   

「人を殺してはいけません」という命題の正当性を法律という文脈を持ち出すことなく万人に理解できる形で主張できるだろうか。もっと言えば、5歳の子供に素朴な疑問として「なぜ人を殺してはいけないの?」と問われた場合に、大人として誤魔化すことなくきちんと答えられるだろうか。

 

あるいは、「なぜ授業中に居眠りをするのか」という問いに対する「眠たいからだ」という答えは論理的であるだろうか。はたまた、「就職氷河期と言われるこんな時代だからこそより一層就職活動に尽力する」という判断は本当に合理的なのか。

 

そんな、一見すると“とんち”の真似事のようなこの営みこそが、「論理」と「倫理」を語る上での第一歩である。この似ているようで似ていないふたつの概念についてこの記事では考えていこう。

 

さて、どのような分野においても、何らかの概念を語るにあたっては、まずもって言葉の定義から確かめなくてはならない。

 

そこで、「論理」という語を辞書で引いてみると、

「考えや議論などを進めていく筋道」
「思考や論証の組み立て」
「思考の妥当性が保証される法則や形式」

などと出てくる。

 

まあ、おそらく多くの人にとって特に違和感はないだろう。

 

では次に、「倫理」という語はどうだろうか。こちらは、

「人として守り行うべき道」
「善悪や正邪の判断において普遍的な規準となるもの」
「道徳・モラル」

といった感じだ。

 

こちらも、一般的な感覚から大きくずれてはいないだろう。

 

つまり、「論理」とは構造的なものであり、取り扱う話題の中身に関係なく形式的に真偽が確定するものである。これは比較的わかりやすいだろう。

 

ところが、一方で「倫理」とは、実は主観的な性質を持つものであり、その判断主体の民族の違いや文化的背景によって大きく評価が分かれるものなのである。

 

と、ここで、「倫理」が主観的なものであるという記述に対して違和感を覚える方もいるかもしれない。ある一定の倫理観くらいは誰しもが普遍的に備えているだろう、と。

 

しかし、これは大きな誤解である。

 

性善説と性悪説はどちらが正しいのか、などという2000年以上前から延々と続く対立構造を持ち出すまでもなく、確かに一般的に「倫理観」なるものを我々は感覚的に持っているように思われる。けれども、それは「法律」という、いわば「倫理という主観的な存在を人々が客観的に思えるように記述した体系」を普段から我々が意識して生きているからである。

 

「法律」というものの影響力は強大だ。少し考えればそれは当たり前で、何故なら、もし反すれば、その程度に応じて罰則が設定されているからである。逆に言えば、我々には基本的に外的なペナルティを回避しようとする意識があり、それがいつの間にか自然と「倫理観」なるものにすり替わってしまっているのだ。

 

誤解のないように一応述べておくが、もちろんオレ自身は法律の存在を否定するわけでは決してないし、国家という組織を成り立たせるためには必要不可欠なものとして理解している。あくまでオレが言いたいのは、一見すると客観性のありそうな「倫理」というものですらルールメイキングをした人間の主観の集合体なのだということである。

 

さて、まとめると、「論理」と「倫理」は一見すると似ているようで、その性質は明確に異なる。

 

「罪を犯せば捕まる」
「捕まることに抵抗がない」
ならば、
「捕まってもいいなら罪を犯してもいい」

 

もしかしたらご存じの方も多いと思うけれども、この文章の流れは三段論法と言って、「論理的には」何も間違っていない。しかし、当然ながら「倫理的には」激しく間違っている。

 

つまり、「倫理観」とは「人間味」と言い換えることができるのかもしれない。決して冷徹な思考ロボットではない。血の通った人間の良心が自然と生み出した概念こそが「倫理」なのだろう。

 

オレ自身は自分のことを世間の一般的な人よりも多少は論理的な人間だと自負しているが、それ故に、しばしば冷徹な思考をしてしまうことがあることも自覚している。

 

これから改めて、「知性」を獲得しようとする過程に「人間味」を置き忘れてしまうなどという寂しいことにならないよう気を付けようと思う。

 

 - 思考