異文化と言語、つまり英語
日本の社会において、というよりどの国あるいは社会においても同様だと思うけど、異なったバックグラウンドを持つ者同士がお互いに共生していくために最も重要な要因は言語による意思疎通であるとオレは考えている。
当然ながら、共生とは互いに平等な力関係によって成り立つものなので、その社会を構成する者同士が対等に意思疎通できることは必要不可欠な前提である。
一般に、社会学などの文脈で、共生のために他に必要な要素として挙げられる異文化、アイデンティティ、価値観、思考法、慣習、生活様式などに対する理解も、その多くが言語を介して行われる。つまり、言語による意思疎通が不完全である場合、その他の要因は実質あまり意味を持たないと言えるだろう。
逆に言えば、互いに意思を伝え合わない状況ではそういった文化的「違い」に対しての違和を感じたとしても、言語による意思疎通が問題なく成されるならば、そのような「誤解」をいくらでも解くことが可能なのである。
また、言語はお互いに「違いを理解する」という側面においてのみ重要なのではなくて、例えば、雇用の現場における待遇などにも密接に影響を与えるだろう。これらは決して差別などではなく、単純に職務能力に直接関わる問題だからである。
ここまでは、日本語のネイティブ話者である日本人と日本語の非ネイティブ話者である外国人との対比構造を当然ながら想定していた。しかしながら、身近に普通に起こり得る状況としては、日本人同士の関係性にも成り立つことである。
つまり、ある人が、ある集団あるいは組織に属しているとして、その中で話される話題が自分にとって全く興味関心がない、あるいは学術的な専門性の水準がマッチしていない、などという状況があった場合に、その他の感性の部分でいかに一致していようとも、自分はその集団あるいは組織の仲間であるとの認識は自他ともに得難いであろう。言い換えれば、この状況は共生が成立していないということになる。
しかし、こう考えていくと、狭い意味での共生が成り立つかどうかは、結局、国籍や文化やその他のバックグラウンドとは関係なく、単純に人として合うか合わないかというだけのことなのではないか、もっと身も蓋もない言い方をするなら、ただの好き嫌いではないか、ということになってしまう。
しかしながら、この考え方ではさすがに極端すぎる上にほとんど解決策を見出せないので、広い意味での社会的な共生に的を絞って解決策を考察する。
言語による意思疎通が共生のためには重要であると上で述べたけれども、では実際に非ネイティブ話者の言語運用能力を高めるためには何をすればよいのだろうか。
ここでまず前提として問題となるのが、日本語という言語の特徴の一つである「同系統の言語がない」(韓国語は比較的近いという説もあるが)、つまり「似た言語がない」ということがあげられる。これは歴史言語学および比較言語学の分野で証明されていることなのだけど、この特徴のせいで非ネイティブ話者が日本語を学習するのは非常に困難である。
そうであるならば、互いに歩み寄るという意味も込めて、日本人の側も今や国際共通語である英語の学習にもう少し真摯に取り組むというのもひとつの選択肢として有効なのではないか。少なくとも、英語は多くの言語と共通点を持っているため、非ネイティブが日本語を学ぶよりはよほど効率も効用も高いと考えられる。
異文化だ相互理解だとつらつら語っておきながら、結局、英語からは逃れられないという、どうしようもなく「陳腐」な結論に至ってしまった(笑)