賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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産みの苦しみには何度やっても慣れない

   

日々、文章を書いて生きている。ブログ記事のように1000~2000文字くらいが頻度としては最も多いが、しばしば1万文字を超えるような長文もTwitterのように140文字以内で終わる文章も「ワロタwww」のように文章とは呼べないレベルの短文も書いたりする。

 

そういう、ひとつひとつの文章を産み出すにあたって、産みの苦しみというのは常に付き纏う。もはや何年やっているのかと自分に対して呆れそうになるけれども、どうにも自分の中で書きたい事をスラスラと書けたという実感を抱いたことは未だに一回もない気がするのである。

 

文章自体はもちろん書きたいから書いている。誰かから強制されているわけでもない。にもかかわらず、脳内で漠然と渦巻いている概念の断片のようなものがパッと明確に言語化されてくるまでには、実はかなりの時間を必要とする。いや、もっと正確に言えば、時間をかければかけるほど高い精度できちんと言語化されるというわけでもないというのがさらに厄介なところである。

 

良い意味でバカなヤツの方が行動が早いなどとはしばしば言われることだが、文章を書くという点においてもそれは当てはまる気がする。私の場合は、文章を書こうとする際には脳内で主張と反論の弁証法的な作業が絶えず繰り返されている。そんな中で、最初に書こうと思っていた主張が脳内で反証されてしまう事がしばしばある。そうなってしまうと、もはや記事にして世に出すことには自分の中で抵抗感が生まれるのだ。

 

そういう「ひとりアウフヘーベン」が完了するまで、なかなか実際に言語化するというのは難しい。そんな事を細かく考えないタイプの人にとってはこの段階で時間がかかるという事はあまりないのではないかと思う。

 

ともあれ、この厳しい「脳内自然淘汰」を潜り抜けてきてようやく言語表現として世に出るのである。

 

こればっかりは、訓練によって少しは処理速度が上がってくれることはあっても、本質的に避けることのできない過程である。まさに産みの苦しみだ。

 

しかし、やはり世の中に対して何かを産み出したくて、そんなドMプレイをいつもいつも繰り返しているのである。

 

 - 言語論