賢哲なる恣意性

桐峰矜公式ブログ

  

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知識や情報の間違いを恐れてはいけない

   

世の中に対して何かを発表するにあたっては、その「何か」が価値のあるものでなければならない。まあ、ある種の考え方によっては、価値なんてものは受け手の側がそれぞれ勝手に認識するものなのだから必ずしも一義的に決まるものではないというのは、確かに極めて真っ当な発想ではあるのだけど、少なくとも大前提として、自分の中で価値があると思っていなければ世に出そうとは思わないのではないだろうか。

 

そんな想いの中で、では「価値」とは一体どのようなものなのだろうかという話になってくる。そうなると、我々のように広い意味での知的コンテンツを世の中に提供しようとしている人間からすれば、まずは何を置いてもその情報の質というものが問われてくるように思える。

 

しかし、私の考えからするとそこは少し解釈が分かれるところである。確かに情報の質は重要だ。けれども、それは決して「客観的な事実関係が正確であればあるほど良い」と一概に言えるものではないと考えている。

 

もし読者が、事実関係が正しい事を求めているのならば、公的機関が発表している一次資料や然るべき雑誌などに発表された論文などを読みに行くべきであって、こんな得体のしれない個人のブログを読んでいる場合ではない。

 

そもそも論として、私はこのブログやその他のネット上の知的活動において、自分が「正しい情報」を提供しているとは思っていない。私が提供するのは、例えば「視点」であるとか「考え方」、あるいは「既存の概念の再定義」や「あまり一般的ではない語彙に関する考察」などである。もちろん他にも色々とあるが、少なくとも「正しい情報」を読者に提供しているわけではない。(もちろんわざと悪意でウソを書く事はさすがにないが)

 

何か「正しさ」というものを求めてしまうと、それはもはやだれが書いても同じになってしまう。そうではなく、書き手の味付けがきちんと感じられるような知的コンテンツにこそ意味があると私は考えている。

 

それこそが、従来までの上から言われた“正しい”ことだけを盲目的に学ぶような教育文化とは違って、誰もがインターネット上で好き勝手に何かを生産し、また消費するというこの現代に特有の文化の中での面白さだろうと思うのである。

 

 - メディア論